Admiral Data
遂_昭喬如
思想 野心 人望 智力 武力 名声
27 76 42 53 64 116

経歴

157年1月
 当時 32歳、杞_左行に上士として仕える。
  能力アピールでの昇進であったと言われる。
   


157年5月
 櫟西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


158年5月
 函谷関西の攻防戦において、冶父_士軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   冶父_士領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


158年8月
 夷陵西の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
     


158年11月
 方城西の戦いにおいて、冶父_士軍と対戦。
  前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   冶父_士領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


159年7月
 臨晋の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


160年3月
 函谷関山の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


160年9月
 函谷関山の攻防戦において、冶父_士軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


162年7月
 杞_左行公指揮のもと冶父_士国函谷関城攻略戦に参加。
  


162年7月
 城内への強行突入に成功、函谷関城を陥落させる。
  


163年1月
 函谷関東の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


163年5月
 櫟川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   櫟地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


164年8月
 召陵_観万下大夫指揮のもと冶父_士国城攻略戦に参加。
  


164年8月
 城内への強行突入に成功、城を陥落させる。
  


165年1月
 軽い病にかかるが、数日で回復する。
  


165年1月
 郢川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。
   桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
     功績により下大夫に昇進。
      


165年2月
 国内の羅_頓声に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


165年6月
 庸山の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


166年5月
 随北の戦いにおいて、大戎_狼軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


167年10月
 羅_頓声卿指揮のもと大戎_狼国魯陽城攻略戦に参加。
  


167年10月
 城内への強行突入に成功、魯陽城を陥落させる。
  


168年6月
 息子の遂_昭秦が元服し杞_左軍上士を拝命。
  


170年7月
 予章北の戦いにおいて、督陽_子師軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    功績により中大夫に昇進。
     


170年10月
 桐丘_牛彭卿指揮の桐丘_牛軍に城を包囲される。
  


170年10月
 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


171年2月
 唐南の戦いにおいて、平城_渠軍と対戦。
  陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    平城_渠領を制圧。
     


171年2月
 平城_渠国城攻略戦に着手。
  


171年2月
 城内への強行突入に成功、城を陥落させる。
  


171年4月
 州川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   功績により上大夫に昇進。
    


171年4月
 桐丘_牛彭卿指揮の桐丘_牛軍に城を包囲される。
  


171年4月
 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


171年12月
 桐丘_牛彭卿指揮の桐丘_牛軍に城を包囲される。
  


171年12月
 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


172年4月
 ケ西の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  右翼を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


173年1月
 州南の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


173年1月
 新鄭_華侯上大夫指揮の桐丘_牛軍に城を包囲される。
  


173年3月
 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


173年8月
 随川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により卿に昇進。
     


173年12月
 州南の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   


173年12月
 桐丘_牛循中大夫指揮の桐丘_牛軍に城を包囲される。
  


174年4月
 随川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。
  左翼を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


174年6月
 駆けつけた援軍部隊が勝利し、桐丘_牛軍は撤退。
  


174年6月
 州東の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。
  左翼を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


174年10月
 州川の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


174年10月
 新鄭_華侯上大夫指揮の桐丘_牛軍に城を包囲される。
  


175年3月
 州川の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。
  右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    自身は乱戦の中、戦死。
     享年 50歳。
      



Valid HTML 4.01 Transitional正当なCSSです!
Generated by Rekishi Ryuryu
Supported by RHC+