経歴
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157年1月 当時 32歳、杞_左行に上士として仕える。 能力アピールでの昇進であったと言われる。
157年5月 櫟西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
158年5月 函谷関西の攻防戦において、冶父_士軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 冶父_士領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
158年8月 夷陵西の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
158年11月 方城西の戦いにおいて、冶父_士軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 冶父_士領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
159年7月 臨晋の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
160年3月 函谷関山の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
160年9月 函谷関山の攻防戦において、冶父_士軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
162年7月 杞_左行公指揮のもと冶父_士国函谷関城攻略戦に参加。
162年7月 城内への強行突入に成功、函谷関城を陥落させる。
163年1月 函谷関東の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
163年5月 櫟川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 櫟地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
164年8月 召陵_観万下大夫指揮のもと冶父_士国随城攻略戦に参加。
164年8月 城内への強行突入に成功、随城を陥落させる。
165年1月 軽い病にかかるが、数日で回復する。
165年1月 郢川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。 功績により下大夫に昇進。
165年2月 国内の羅_頓声に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
165年6月 庸山の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
166年5月 随北の戦いにおいて、大戎_狼軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
167年10月 羅_頓声卿指揮のもと大戎_狼国魯陽城攻略戦に参加。
167年10月 城内への強行突入に成功、魯陽城を陥落させる。
168年6月 息子の遂_昭秦が元服し杞_左軍上士を拝命。
170年7月 予章北の戦いにおいて、督陽_子師軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により中大夫に昇進。
170年10月 桐丘_牛彭卿指揮の桐丘_牛軍に州城を包囲される。
170年10月 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、州城は安泰を得る。
171年2月 唐南の戦いにおいて、平城_渠軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 平城_渠領唐を制圧。
171年2月 平城_渠国唐城攻略戦に着手。
171年2月 城内への強行突入に成功、唐城を陥落させる。
171年4月 州川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 功績により上大夫に昇進。
171年4月 桐丘_牛彭卿指揮の桐丘_牛軍に州城を包囲される。
171年4月 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、州城は安泰を得る。
171年12月 桐丘_牛彭卿指揮の桐丘_牛軍に州城を包囲される。
171年12月 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、州城は安泰を得る。
172年4月 ケ西の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
173年1月 州南の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
173年1月 新鄭_華侯上大夫指揮の桐丘_牛軍に州城を包囲される。
173年3月 桐丘_牛軍は自軍の側背を考慮し撤退、州城は安泰を得る。
173年8月 随川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
173年12月 州南の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
173年12月 桐丘_牛循中大夫指揮の桐丘_牛軍に州城を包囲される。
174年4月 随川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
174年6月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、桐丘_牛軍は撤退。
174年6月 州東の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
174年10月 州川の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
174年10月 新鄭_華侯上大夫指揮の桐丘_牛軍に州城を包囲される。
175年3月 州川の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 50歳。
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