経歴
|
157年1月 当時 46歳、冶父_士梗に士として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
157年2月 この月の人事で、冶父_士国、文官として処務にあたる任を司る。
157年6月 太純卿の指示によって、地元の支持を得るべくケの地への赴任が決まる。
157年10月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、ケの地をあとにする。
158年6月 項_范就宰相の指示によって、地元の支持を得るべく邯鄲の地への赴任が決まる。
158年6月 邯鄲の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
158年10月 項_范就宰相の指示によって、地元の経済の向上を目指し洛邑の地への赴任が決まる。
159年1月 盧戎_公何不韋卿指揮の広武_騎軍に毛城を包囲される。
159年1月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、毛城は安泰を得る。
159年1月 この月の人事で、冶父_士国、文官として処務にあたる任を司る。
159年9月 項_范就宰相の指示によって、地元の支持を得るべく曲沃の地への赴任が決まる。
159年12月 曲沃の不穏な動きを察知し、任務を中断、 首邑へ戻り報告をする。
160年1月 項_范就宰相の指示によって、地元の支持を得るべく申の地への赴任が決まる。
160年6月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、申の地をあとにする。
161年1月 項_范就宰相の指示によって、地元の支持を得るべくケの地への赴任が決まる。
161年6月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、ケの地をあとにする。
161年9月 霍西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
161年10月 鄭南の戦いにおいて、京茲_婁軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 鄭地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
162年1月 曲沃北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
162年5月 霍森の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、まんまと敵の挑発にのり部隊は混乱、敗戦。 霍地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
162年7月 洛邑北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。
162年7月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
164年10月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、大梁_荊軍に仕官する。 彼が 53歳の時であった。
165年1月 代山の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
165年1月 梁丘_華廣利卿指揮の広武_騎軍に代城を包囲される。
165年4月 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、代城は安泰を得る。
166年10月 代城において病に伏せ逝去。 享年 56歳。
|
|