経歴
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171年1月 厥貉_王官忌の嫡子として元服し居巣_軍士を拝命。
171年4月 朱方北の戦いにおいて、京茲_婁軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
171年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
172年2月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、広武_騎軍に仕官する。 彼が 16歳の時であった。
172年3月 高唐の地を拠点とする、梁丘_華廣利卿揮下の北東部方面軍に配属。
172年6月 広武_騎嬰上大夫指揮のもと滑_懿国高密城攻略戦に参加。
172年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高密城攻略は断念。 兵を退く。
172年10月 国内の江_輔続と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
173年1月 曹平原の戦いにおいて、黄_王子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 黄_王子領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
173年6月 賛同する江_輔続士のはからいにより、 臨晋の地を拠点とする広武_騎同卿揮下、南東部方面軍に配属が決まる。
173年6月 鼓東の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。 後衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
173年7月 臨晋の地の方面軍を解任、首都に戻る。
173年8月 賛同する江_輔続士のはからいにより、 高唐の地を拠点とする梁丘_華廣利卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
173年10月 広武_騎兌公指揮のもと黄_王子国杞城攻略戦に参加。
173年10月 城内への強行突入に成功、杞城を陥落させる。
173年12月 高唐の地の方面軍を解任、首都に戻る。
174年7月 賛同する江_輔続士のはからいにより、 高唐の地を拠点とする梁丘_華廣利卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
174年10月 南鄭東の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
175年4月 祭川の戦いにおいて、大陵_李軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
175年7月 申平原の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領申を制圧。
176年1月 平城の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
176年3月 ケ川の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領ケを制圧。
176年6月 剣閣北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領剣閣を制圧。
176年10月 楼煩東の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
177年2月 国内の湛阪_南乘と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
177年3月 随川の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
177年9月 京北の攻防戦において、B.淮_爲軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 B.淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり淮_爲軍士として登用される。
178年3月 温南の攻防戦において、淮_爲軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
178年8月 長子山の戦いにおいて、淮_爲軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
179年4月 霍東の戦いにおいて、淮_爲軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
179年6月 琅邪南の攻防戦において、広武_騎軍援軍として大陵_李軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い奮戦するが、敗戦。 琅邪地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
179年12月 蔡川の戦いにおいて、秦周_燕軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 秦周_燕領蔡を制圧。
180年3月 舒西の攻防戦において、広武_騎軍援軍として京茲_婁軍と対戦。 後衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 京茲_婁領舒を制圧。
180年10月 陳平原の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として秦周_燕軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 秦周_燕領陳を制圧。
181年2月 予章川の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
181年8月 紀森の戦いにおいて、大陵_李軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 大陵_李領紀を制圧。
181年12月 温川の攻防戦において、驪戎_滕軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 驪戎_滕領温を制圧。
181年12月 広武_騎同公指揮のもと驪戎_滕国温城攻略戦に参加。
181年12月 留守の城を懸念し長期戦は避け、温城攻略は断念。 兵を退く。
182年5月 予章北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領予章を制圧。 功績により上士に昇進。
182年9月 建為西の攻防戦において、広武_騎軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
182年10月 国内の期思_南宮班に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
183年2月 鄭南の戦いにおいて、淮_爲軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
183年5月 平城の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
183年6月 温川の攻防戦において、驪戎_滕軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 驪戎_滕領温を制圧。
183年6月 広武_騎同公指揮のもと驪戎_滕国温城攻略戦に参加。
183年6月 留守の城を懸念し長期戦は避け、温城攻略は断念。 兵を退く。
184年2月 国内の采桑_謝允に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
184年8月 予章北の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
184年8月 国内の白圭に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
185年4月 広武_騎嬰卿指揮のもと大陵_李国曲阜城攻略戦に参加。
186年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、曲阜城攻略は断念。 兵を退く。
186年10月 薛西の攻防戦において、京茲_婁軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 京茲_婁領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
187年2月 六北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として督陽_子師軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 督陽_子師領六を制圧。
187年7月 番陽北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として督陽_子師軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
187年9月 国内の邯鄲_武昌に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
188年3月 予章北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として督陽_子師軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
188年8月 第2次陳の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として秦周_燕軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 秦周_燕領陳を制圧。 功績により下大夫に昇進。
188年12月 番陽北の攻防戦において、督陽_子師軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
189年5月 陳西の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として秦周_燕軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 秦周_燕領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
190年3月 建為山の攻防戦において、広武_騎軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
191年2月 広武_騎艾卿指揮のもと滑_懿国高密城攻略戦に参加。
191年9月 高密西の攻防戦において、滑_懿軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 滑_懿領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり滑_懿軍士として登用される。 功績により上士に昇進。
193年11月 息子の厥貉_王官従が元服し広武_騎軍士を拝命。
194年12月 国内の京茲_婁サに今後とも協力して関係にあたることを誓う。
198年7月 息子の厥貉_王官漢が元服し広武_騎軍士を拝命。
200年2月 息子の厥貉_王官悪が元服し広武_騎軍士を拝命。
200年3月 厥貉_王官家の次男である彼は、生まれ故郷の町陽にちなんで、 陽と改姓。
211年5月 平城において病に伏せ逝去。 享年 56歳。
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