経歴
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245年1月 沮陽_王殷の養子に迎えられ広武_騎軍上士を拝命。
246年2月 父である沮陽_王殷卿指揮のもと広武_騎国濮陽城攻略戦に参加。
246年2月 留守の城を懸念し長期戦は避け、濮陽城攻略は断念。 兵を退く。
246年9月 杞南の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。
246年9月 息子の沮陽_王公明が元服し広武_騎軍士を拝命。
246年10月 息子の沮陽_王耳が元服し広武_騎軍士を拝命。
247年1月 広武_騎貸公指揮の広武_騎軍に曲阜城を包囲される。
247年3月 公広武_騎跖に今後の忠誠を誓う。
247年5月 広武_騎国に拠点曲阜を制圧されるが、 からくも脱出に成功。 再起にかける。
247年6月 炎卩川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
247年8月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
247年8月 炎卩南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
248年2月 広武_騎貸公指揮の広武_騎軍に紀城を包囲される。
248年12月 聊川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で左翼を担い奮戦するが、敗戦。
249年6月 斉西の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 前衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
249年7月 琅邪南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
249年9月 紀の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
249年11月 九原東の攻防戦において、ケ_仲軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
250年3月 第5次魯陽の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
250年8月 九原平原の攻防戦において、広武_騎軍援軍としてケ_仲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
250年11月 第6次魯陽の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
251年5月 国内の営丘_后毋に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
251年10月 第2次櫟邑の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
251年12月 朝歌西の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 この勝利により新鄭_華国に講和を結ばせることに成功。 功績により上大夫に昇進。
252年3月 九原平原の戦いにおいて、広武_騎軍援軍としてケ_仲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
253年10月 毛森の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
253年12月 新鄭_華コ卿指揮の新鄭_華軍に邯鄲城を包囲される。
253年12月 新鄭_華軍は自軍の側背を考慮し撤退、邯鄲城は安泰を得る。
254年6月 鄭の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
254年8月 第4次陳の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
254年11月 祭川の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
255年2月 寿春の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
255年12月 国内の広武_騎醜に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
256年6月 沮陽_王千秋を養子に迎える。
256年7月 曲沃の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。
256年9月 商丘の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。
256年12月 曹西の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
256年12月 敵侵攻によって孤立した邯鄲の地で暫定自治を始める。
259年5月 長子の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
260年10月 第2次鉅鹿の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
260年12月 邯鄲南の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し奮戦するが、敗戦。
260年12月 新鄭_華コ卿指揮の新鄭_華軍に邯鄲城を包囲される。
260年12月 新鄭_華軍は自軍の側背を考慮し撤退、邯鄲城は安泰を得る。
261年1月 沮陽_王術を養子に迎える。
261年9月 邯鄲南の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
261年9月 新鄭_華疑卿指揮の新鄭_華軍に邯鄲城を包囲される。
261年9月 邯鄲城は包囲戦の末、陥落。
261年9月 新鄭_華国に拠点邯鄲を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 54歳。
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