経歴
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271年10月 屠岸羲の嫡子として元服し新鄭_華朝咸陽帝国軍士を拝命。
281年8月 父である屠岸羲上士のはからいにより、 南皮の地を拠点とする新鄭_牛承卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
282年12月 君主新鄭_華重耳逝去。 この機会に独立を果たした新鄭_華俶に従うことを決める。
283年1月 配属されていた南皮の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
283年1月 新鄭_華俶王指揮のもと新鄭_華国虞城攻略戦に参加。
283年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、虞城攻略は断念。 兵を退く。
283年6月 新鄭_牛下大夫指揮のもと新鄭_華国許城攻略戦に参加。
283年6月 城内への強行突入に成功、許城を陥落させる。
283年12月 第4次巴の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
284年5月 第3次虞の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
284年9月 櫟の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領櫟を制圧。
285年1月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
285年1月 第2次巫の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 この勝利により新鄭_華国に講和を結ばせることに成功。
285年4月 第2次庸の戦いにおいて、楚丘_豊軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 楚丘_豊領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
285年8月 第2次藍田の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 父に随軍する形で左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
286年2月 新鄭_華俶王指揮のもと新鄭_華国櫟城攻略戦に参加。
286年2月 留守の城を懸念し長期戦は避け、櫟城攻略は断念。 兵を退く。
286年8月 新鄭_牛上大夫指揮のもと新鄭_華国臨晋城攻略戦に参加。
286年8月 城内への強行突入に成功、臨晋城を陥落させる。
287年1月 南鄭南の戦いにおいて、大陵_冶軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 大陵_冶領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
287年6月 南鄭南の戦いにおいて、大陵_冶軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 大陵_冶領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
287年9月 虞東の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領虞を制圧。
287年9月 新鄭_牛卿指揮のもと新鄭_華国虞城攻略戦に参加。
288年1月 虞平原の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領虞を制圧。
288年1月 新鄭_牛卿指揮のもと新鄭_華国虞城攻略戦に参加。
288年4月 虞平原の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
288年8月 国内の新鄭_牛に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
289年4月 櫟川の戦いにおいて、大陵_冶軍と対戦。 前衛騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 大陵_冶領櫟を制圧。
289年4月 新鄭_華閼卿指揮のもと大陵_冶国櫟城攻略戦に参加。
289年4月 城内への強行突入に成功、櫟城を陥落させる。
290年2月 虞東の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領虞を制圧。
290年2月 新鄭_牛卿指揮のもと新鄭_華国虞城攻略戦に参加。
290年2月 虞城を強襲、陥落させる。
291年2月 庸東の戦いにおいて、楚丘_豊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 楚丘_豊領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり楚丘_豊軍士として登用される。
294年3月 庸山の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
294年3月 新鄭_華俶王指揮の新鄭_華朝曲沃帝国軍に庸城を包囲される。
294年3月 新鄭_華朝曲沃帝国軍の猛攻を防ぎきれず、庸城は落城する。
294年3月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
296年8月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 40歳の時であった。
296年8月 建為の南西部方面軍を解任、首邑に戻る。
296年12月 第8次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
297年6月 蜀平原の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
297年9月 蜀平原の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
298年9月 蜀北の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
298年10月 雲中の地を拠点とする、新鄭_華閼卿揮下の北部方面軍に配属。
300年3月 第2次広漢の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
300年6月 雲中の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
300年9月 第10次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
301年3月 第11次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
301年6月 第12次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
301年10月 国内の鳴雁_子師皮と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
302年12月 南鄭の地を拠点とする、新鄭_牛衆上大夫揮下の南西部方面軍に配属。
303年5月 国内の新鄭_華閼に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
306年2月 巴城において病に伏せ逝去。 享年 50歳。
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