経歴
|
290年7月 亡き父、京茲_婁赫の遺志をつごうと、楚丘_豊軍に仕官する。 彼が 17歳の時であった。
291年2月 庸東の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上士に昇進。
294年3月 庸山の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。 功績により下大夫に昇進。
294年3月 新鄭_華俶王指揮の新鄭_華朝曲沃帝国軍に庸城を包囲される。
294年3月 新鄭_華朝曲沃帝国軍の猛攻を防ぎきれず、庸城は落城する。
294年3月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
297年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 25歳の時であった。
297年6月 蜀平原の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
297年9月 蜀平原の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
298年9月 蜀北の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
298年10月 南鄭の地を拠点とする、新鄭_牛衆上大夫揮下の南西部方面軍に配属。
299年12月 広漢の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 後衛騎を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
300年3月 第2次広漢の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
300年7月 国内の新鄭_華信臣に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
300年9月 第10次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 前衛騎を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
300年9月 新鄭_華俶王指揮のもと新鄭_華国蜀城攻略戦に参加。
300年9月 留守の城を懸念し長期戦は避け、蜀城攻略は断念。 兵を退く。
301年3月 第11次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
301年6月 第12次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
301年6月 新鄭_華俶王指揮のもと新鄭_華国蜀城攻略戦に参加。
301年9月 留守の城を懸念し長期戦は避け、蜀城攻略は断念。 兵を退く。
302年12月 巴の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
307年5月 国内の梁丘_華陵と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
314年5月 賛同する新鄭_華信臣中大夫のはからいにより、 南鄭の地を拠点とする新鄭_牛衆上大夫揮下、 南西部方面軍に配属が決まる。
315年5月 君主新鄭_華俶逝去。 以後長男である新鄭_華閼の継承権争いに力を貸す。 この時43歳。
315年6月 第2次櫟の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領櫟を制圧。
315年8月 櫟邑の地を拠点とする、新鄭_華宇中大夫揮下の東部方面軍に配属。
317年1月 息子の京茲_婁南が元服し新鄭_華朝咸陽帝国軍士を拝命。
317年4月 国内の新鄭_牛儀に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
332年5月 この月の人事で、新鄭_華国、文官として処務にあたる任を司る。
332年6月 新鄭_牛孔宰相の指示によって、地元の支持を得るべく雲中の地への赴任が決まる。
332年6月 雲中の地で飢えに苦しむ人々や荒んだ状況を目の当たりにする。
332年12月 住民支持向上の一定の成果は上げ雲中の地をあとにする。
332年12月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
333年9月 地元の経済の向上を目指し随の地への赴任が決まる
333年11月 経済状況改善の成果をかろうじて上げ、随の地をあとにする。
334年8月 新鄭_牛孔宰相の指示によって、地元の支持を得るべくケの地への赴任が決まる。
334年8月 ケの地で飢えに苦しむ人々や荒んだ状況を目の当たりにする。
335年2月 住民支持向上の一定の成果は上げケの地をあとにする。
335年2月 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
335年11月 新鄭_牛孔宰相の指示によって、地元の支持を得るべく九原の地への赴任が決まる。
335年11月 九原の地で飢えに苦しむ人々や荒んだ状況を目の当たりにする。
336年5月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 九原の地をあとにする。
336年6月 咸陽城において病に伏せ逝去。 享年 64歳。
|
|