経歴
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349年4月 徐の地にいた際、敖倉_爲軍所属の敖倉_爲且居中大夫から仕官の誘いがあり王と会う約束をする。
349年4月 敖倉_爲称と面会するが、話が合わず決裂する。
349年9月 諸国を巡行の後、敖倉_爲軍に仕官する。 彼が 23歳の時であった。
355年4月 櫟邑の地を拠点とする、陳_許行上士揮下の東部方面軍に配属。
355年4月 国内の新鄭_牛庚と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
360年2月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
360年3月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく広陵の地への赴任が決まる。
360年9月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、広陵の地をあとにする。
361年6月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく高奴の地への赴任が決まる。
361年11月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、高奴の地をあとにする。
361年11月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
362年8月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく淮の地への赴任が決まる。
363年1月 住民らの華美を過剰に取り締まり反感を買うなど失政をし、 鐘離の地をあとにする。 そのことを知った、敖倉_爲称王が激怒。 5ヶ月の謹慎処分を受ける。
363年10月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく號の地への赴任が決まる。
363年11月 息子の唐_公孫苛が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
364年3月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、號の地をあとにする。
364年5月 国内の新鄭_牛翠に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
364年12月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく薛の地への赴任が決まる。
365年5月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、薛の地をあとにする。
366年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく歴陽の地への赴任が決まる。
366年7月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、歴陽の地をあとにする。
367年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく即墨の地への赴任が決まる。
368年2月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、即墨の地をあとにする。
368年11月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく寿春の地への赴任が決まる。
369年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、寿春の地をあとにする。
369年4月 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
369年4月 国内の蘇_特融に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
370年3月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく隴西の地への赴任が決まる。
370年8月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、隴西の地をあとにする。
370年8月 国内の陳_岑堅に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
371年7月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく六の地への赴任が決まる。
371年12月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、六の地をあとにする。
372年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく剣閣の地への赴任が決まる。
373年2月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 剣閣の地をあとにする。
373年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく蜀の地への赴任が決まる。
374年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、蜀の地をあとにする。
374年4月 国内の彭城_衛革に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
374年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく淮の地への赴任が決まる。
375年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、淮の地をあとにする。
375年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく斉の地への赴任が決まる。
376年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、斉の地をあとにする。
376年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく薊の地への赴任が決まる。
377年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、薊の地をあとにする。
377年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく蔡の地への赴任が決まる。
378年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、蔡の地をあとにする。
378年2月 文官としての功績が評価され、中大夫に昇進。
378年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく建為の地への赴任が決まる。
379年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、建為の地をあとにする。
379年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
380年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、舒の地をあとにする。
380年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
381年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、舒の地をあとにする。
381年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく魏の地への赴任が決まる。
382年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、魏の地をあとにする。
382年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく高密の地への赴任が決まる。
382年12月 国内の沮陽_王有に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
383年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、高密の地をあとにする。
383年12月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく長子の地への赴任が決まる。
384年2月 王敖倉_爲昶の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
384年5月 咸陽城において病に伏せ逝去。 享年 59歳。
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