経歴
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356年6月 陽楽の地にいた際、敖倉_爲軍所属の新鄭_牛温舒下大夫から仕官の誘いを受けるが、 話が進まず断る。
357年5月 諸国を巡行の後、敖倉_爲軍に仕官する。 彼が 25歳の時であった。
357年11月 櫟邑の地を拠点とする、陳_許行上士揮下の東部方面軍に配属。
357年12月 国内の新鄭_華双と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
359年8月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
359年9月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
360年3月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、舒の地をあとにする。
360年11月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく九原の地への赴任が決まる。
361年5月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、九原の地をあとにする。
362年1月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく隴西の地への赴任が決まる。
362年6月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 隴西の地をあとにする。
363年2月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく陳倉の地への赴任が決まる。
363年7月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、陳倉の地をあとにする。
363年12月 息子の晋_中行が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
364年3月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく斉の地への赴任が決まる。
364年5月 王敖倉_爲称の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
364年6月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく薛の地への赴任が決まる。
364年11月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、薛の地をあとにする。
365年7月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく巴の地への赴任が決まる。
365年12月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、巴の地をあとにする。
365年12月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
366年8月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく商丘の地への赴任が決まる。
367年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、商丘の地をあとにする。
367年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく長沙の地への赴任が決まる。
368年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、長沙の地をあとにする。
368年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく南皮の地への赴任が決まる。
369年3月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、南皮の地をあとにする。
369年11月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく高密の地への赴任が決まる。
370年4月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、高密の地をあとにする。
370年12月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
371年5月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、晋陽の地をあとにする。
371年11月 息子の晋_中行羽が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
372年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく函谷関の地への赴任が決まる。
372年6月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、函谷関の地をあとにする。
373年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく州の地への赴任が決まる。
373年6月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、州の地をあとにする。
374年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく號の地への赴任が決まる。
374年6月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、號の地をあとにする。
374年6月 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
375年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく広陵の地への赴任が決まる。
375年6月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、広陵の地をあとにする。
376年1月 息子の晋_中行慎が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
376年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく筥の地への赴任が決まる。
376年6月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、筥の地をあとにする。
377年2月 国の柱となる人材を収集するべく琅邪の地への赴任が決まる
377年11月 国内の祭_渠輔に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
378年1月 この地にいた趙_項不勝という人物の噂を聞き、 仕官を勧めたが話は進展せず断られてしまう。
378年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく梁の地への赴任が決まる。
379年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、梁の地をあとにする。
380年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく梁の地への赴任が決まる。
380年5月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、梁の地をあとにする。
381年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく臨晋の地への赴任が決まる。
381年3月 国内の南里_叔恩に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
381年4月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、臨晋の地をあとにする。
382年3月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく向の地への赴任が決まる。
382年7月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、向の地をあとにする。
383年5月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく杞の地への赴任が決まる。
383年9月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、杞の地をあとにする。
383年9月 文官としての功績が評価され、中大夫に昇進。
383年11月 国内の南里_燭演に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
384年3月 咸陽城において病に伏せ逝去。 享年 53歳。
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