経歴
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367年2月 聊の地にいた際、敖倉_爲軍所属の秦_万悪士から仕官の誘いがあり王と会う約束をする。
367年2月 敖倉_爲昶と面会するが、話が合わず決裂する。
367年6月 敖倉_爲昶の支配する商丘の地を訪れる。 この地の知者との話などから配下の敖倉_爲柳中大夫の人物像に好印象を覚える。
367年7月 敖倉_爲昶の支配する虞の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから配下の敖倉_爲柳中大夫の人物像に好印象を覚える。
367年8月 諸国を巡行の後、敖倉_爲軍に仕官する。 彼が 22歳の時であった。
369年2月 国内の南里_燭穀に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
370年3月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
370年4月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
370年8月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、舒の地をあとにする。
371年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく鼓の地への赴任が決まる。
372年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、鼓の地をあとにする。
372年11月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく曲沃の地への赴任が決まる。
373年3月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 曲沃の地をあとにする。
374年2月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく舒の地への赴任が決まる。
374年6月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 舒の地をあとにする。
375年7月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく六の地への赴任が決まる。
375年12月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 六の地をあとにする。
376年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく武城の地への赴任が決まる。
377年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、武城の地をあとにする。
378年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく斉の地への赴任が決まる。
378年5月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、斉の地をあとにする。
379年3月 息子の楚_唐不害が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
379年7月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく長子の地への赴任が決まる。
379年11月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 長子の地をあとにする。
380年12月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく無終の地への赴任が決まる。
381年4月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、無終の地をあとにする。
381年4月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
382年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく徐の地への赴任が決まる。
382年5月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 徐の地をあとにする。
383年3月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく臨晋の地への赴任が決まる。
383年7月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、臨晋の地をあとにする。
384年7月 息子の楚_唐起が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
384年8月 国内の唐_公孫苛に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
384年10月 国内の薛_段干咨に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
384年11月 丘輿_中宜下大夫に、部下に常に厳罰を下しているなどという無実の罪の疑いをかけられ、 降格させられる。
384年11月 ろくな仕事も与えられないまま月日が過ぎていく。
384年12月 広陵の地に赴任。
404年11月 広陵城において病に伏せ逝去。 享年 60歳。
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