経歴
|
410年12月 唐の地にいた際、敖倉_爲軍所属の楚_華方進下大夫から仕官の誘いを受けるが、 話が進まず断る。
411年11月 敖倉_爲囂の支配する無終の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから配下の陳_路當時中大夫の人物像に好印象を覚える。
411年12月 諸国を巡行の後、敖倉_爲軍に仕官する。 彼が 28歳の時であった。
412年2月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
412年4月 国内の陳倉_狐止に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
412年5月 息子の唐_師絳が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
412年7月 国内の陽楽_蒙牧と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
412年8月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく商丘の地への赴任が決まる。
412年12月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、商丘の地をあとにする。
413年8月 国内の単_州覇に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
413年10月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく蜀の地への赴任が決まる。
414年2月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 蜀の地をあとにする。
415年8月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく徐の地への赴任が決まる。
415年12月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、徐の地をあとにする。
418年5月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく淮の地への赴任が決まる。
418年9月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、淮の地をあとにする。
419年7月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく函谷関の地への赴任が決まる。
419年11月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、函谷関の地をあとにする。
420年8月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく徐の地への赴任が決まる。
420年12月 王敖倉_爲囂の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
420年12月 君主敖倉_爲囂逝去。 この機会に独立を果たした敖倉_爲黙に従うことを決める。
421年10月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく邯鄲の地への赴任が決まる。
|
|