106年8月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 南郡_將軍翹の目に掛かり仕官。
106年9月 襄国の地を拠点とする、隴西_王保上士揮下の南部方面軍に配属。
106年9月 昌黎_董畿士指揮のもと南郡_將軍軍国濮陽城攻略戦に参加。
106年11月 昌黎_董畿士指揮のもと南郡_將軍軍国曲沃城攻略戦に参加。
106年12月 東平_張統上大夫指揮のもと汝南_張国成皋城攻略戦に参加。
107年3月 河上_廖延卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
107年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年6月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
107年10月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、河上_廖軍は撤退。
107年10月 城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年11月 邯鄲の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
107年12月 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 最後尾で殿を努める。
108年1月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である邯鄲城に立て籠もる。
108年1月 邯鄲城は包囲戦の末、陥落。
108年1月 河上_廖国に拠点邯鄲を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 45歳。
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