100年1月 当時 56歳、廬江_甫爽矩に士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
100年2月 新野_堪囘卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年8月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し咸陽の地への赴任が決まる。
100年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
101年3月 剣閣の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。
101年10月 新野_堪囘卿指揮のもと漢中_輔国臨晋城攻略戦に参加。
101年10月 城内への強行突入に成功、臨晋城を陥落させる。
102年8月 広漢の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
102年9月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
103年11月 漢中_輔基の支配する臨晋の地を訪れる。 この地の知者との話などから象郡_賀軍の人物関係をそれとなく理解する。
103年12月 象郡_賀沛の支配する薊の地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年1月 河上_廖艷の支配する予章の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから陳留_盂軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年2月 河上_廖艷の支配する巫の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから象郡_賀軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年3月 南郡_將軍翹の支配する九原の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから漢中_輔軍の人物関係をそれとなく理解する。
104年4月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、漢中_輔軍に仕官する。 彼が 61歳の時であった。
104年5月 臨晋の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 捕虜となり処刑。 享年 60歳。
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