100年1月 当時 23歳、廬江_甫爽矩に卿として仕える。 卿適任であったと言われる。
100年7月 漢中_輔領への開戦論が持ち上がるが、彼我の戦力事情等から、 これに反対、開戦を延期させる。
101年3月 剣閣の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 河上_廖領剣閣を制圧。
101年9月 漢中_輔領への開戦論が持ち上がるが、彼我の戦力事情等から、 これに反対、開戦を延期させる。
101年10月 漢中_輔国臨晋城攻略戦に着手。
102年2月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である剣閣城に立て籠もる。
102年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 剣閣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 剣閣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年5月 魏郡_將軍国に降伏を促せ、自国に併合させる。
102年5月 漢中_輔領への開戦論が持ち上がるが、彼我の戦力事情等から、 これに反対、開戦を延期させる。
102年8月 漢中_輔国韓原城攻略戦に着手。
102年9月 君主廬江_甫爽矩死亡。 任地であった咸陽の地で旗揚げをする。
102年9月 任地であった咸陽の守備を燕郡_毋將廣邑宰に任せ、 自身は首邑であった雍へと戻る。
104年3月 恐怖で夢から覚めるが、内容は思い出せなかった。
104年9月 中山_學舎中大夫指揮の河上_廖軍に雍城を包囲される。
104年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 雍城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 淮陽_陰參中大夫指揮の河上_廖軍に雍城を包囲される。
105年3月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 雍城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年5月 上谷_滕晞上大夫指揮の河上_廖軍に雍城を包囲される。
106年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 雍城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年12月 河上_廖国に降伏、旧領は没収されたが、上大夫の地位を拝命。
107年2月 予章の地を拠点とする、遼東_楊翼卿揮下の南東部方面軍に配属。
107年3月 第2次洛陽の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として汝南_張軍と対戦。 右翼を担い、偽の退却で敵を包囲、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_張領洛陽を制圧。
107年6月 国内の隴西_季老邃に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
107年10月 息子の新野_堪端が元服し河上_廖軍中大夫を拝命。
107年12月 第2次絳の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。
108年1月 陳留_盂国彭城城攻略戦に着手。
108年2月 彭城城を包囲戦の末、陥落させる。
108年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
108年2月 琅邪の地を拠点とする北東部方面軍の総司令官に任命される。
108年5月 鬱林_劉国即墨城攻略戦に着手。
108年9月 即墨平原の戦いにおいて、鬱林_劉軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
108年9月 鬱林_劉国即墨城攻略戦に着手。
108年10月 息子の新野_堪儒が元服し河上_廖軍下大夫を拝命。
108年11月 即墨城を包囲戦の末、陥落させる。
109年2月 代郡_慶忌国黄城攻略戦に着手。
109年6月 東來東の戦いにおいて、代郡_慶忌軍と対戦。
109年11月 臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に着手。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
110年4月 第2次野王の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 陣頭に立つ、偽の退却で敵を包囲、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領野王を制圧。
110年7月 隴西_季老混宰相指揮のもと代郡_慶忌国黄城攻略戦に参加。
111年1月 廣陵_張混卿率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陽擢城に立て籠もる。
111年1月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 陽擢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年1月 陽擢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
111年1月 息子の新野_堪昭が元服し河上_廖軍下大夫を拝命。
111年2月 陽擢の地を拠点とする方面軍は新たに廣平_梁伶卿が司令官に。
111年2月 陽擢の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
|