145年1月 当時 53歳、東郡_郭樸に下大夫として仕える。 卿の人事であったと言われる。
145年4月 東郡_郭樸公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年5月 東郡_郭樸公の指示によって、地元の経済の向上を目指し高樂の地への赴任が決まる。
145年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
145年10月 東郡_郭樸公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年1月 東郡_郭樸公の指示によって、地元の経済の向上を目指し乘丘の地への赴任が決まる。
146年6月 乘丘の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
146年6月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
146年9月 丹陽_兪睿中大夫指揮のもと東海_召国乘丘城攻略戦に参加。
146年12月 梁郡_李盛中大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である聞喜城に立て籠もる。
147年5月 上谷_程嘉下大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高樂城に立て籠もる。
147年10月 陳郡_盧侯下大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である覇陵城に立て籠もる。
148年1月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 覇陵城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年1月 覇陵城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
148年1月 覇陵の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
148年4月 第2次歴陽の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
148年6月 第2次春穀の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 57歳。
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