145年1月 当時 41歳、桂林_覽訓に上士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
145年2月 新陽の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
145年3月 營陵の戦いにおいて、東郡_郭軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 東郡_郭領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
145年5月 賛治南の戦いにおいて、桂林_覽軍援軍として東海_召軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
146年4月 君主桂林_覽訓死亡。 以後国内の協力者であった隴西_樊憲の旗揚げに従う。
146年11月 大陽の戦いにおいて、東郡_郭軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 東郡_郭領大陽を制圧。 功績により下大夫に昇進。
146年12月 汝陽の地を拠点とする、梁郡_李盛中大夫揮下の東部方面軍に配属。
147年5月 東郡_郭国高樂城攻略戦に着手。
147年9月 高樂川の攻防戦において、東郡_郭軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 東郡_郭領高樂を制圧。
147年11月 汝陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
147年11月 東郡_郭国キ關城攻略戦に着手。
148年1月 キ關城を包囲戦の末、陥落させる。
148年2月 成陽の地を拠点とする、武キ_田恕中大夫揮下の南部方面軍に配属。
148年6月 第2次春穀の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
148年8月 第3次歴陽の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
148年12月 第2次聊城の戦いにおいて、隴西_樊軍援軍として安豐_宋軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。
149年3月 江夏_頓国武功城攻略戦に着手。
149年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、武功城攻略は断念。 兵を退く。
149年11月 東海_召国宣城城攻略戦に着手。
149年11月 城内への強行突入に成功、宣城城を陥落させる。
149年11月 公隴西_樊憲に今後の忠誠を誓う。
150年5月 国内の敦煌_盛宣に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
150年6月 安豐_宋ェ下大夫率いる安豐_宋軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である聞喜城に立て籠もる。
150年6月 安豐_宋軍の猛攻を防ぎきれず、聞喜城は落城する。
150年6月 安豐_宋国に拠点聞喜を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 47歳。
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