145年1月 当時 59歳、桂林_覽訓に上士として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年2月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
145年3月 營陵の戦いにおいて、東郡_郭軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 東郡_郭領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
145年3月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
145年5月 延平の戦いにおいて、東海_召軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 東海_召領延平を制圧。
145年5月 賛治南の戦いにおいて、東海_召軍と対戦。 前衛騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
145年6月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年7月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく范陽の地への赴任が決まる。
145年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
146年1月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年2月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく宜春の地への赴任が決まる。
146年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
146年4月 君主桂林_覽訓死亡。 以後国内の協力者であった安豐_宋祀の旗揚げに従う。
146年10月 安豐_宋祀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年10月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
146年12月 安豐_宋祀公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
148年1月 歴陽の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
148年3月 聊城の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
148年4月 第2次歴陽の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により上大夫に昇進。
148年6月 武キ_田恕中大夫指揮の隴西_樊軍に聊城城を包囲される。
148年6月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 聊城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年11月 武キ_田恕中大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
148年11月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年11月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
148年12月 第2次聊城の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
149年5月 敦煌_令狐滂上士率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
149年5月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年5月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年9月 第3次聊城の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
149年11月 魏郡_羽式上大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
149年11月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年11月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
150年3月 言符の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 隴西_樊領言符を制圧。
150年5月 始成山の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 隴西_樊領始成を制圧。
150年7月 淮陽_張佐を養子に迎える。
150年7月 国内の淮陽_張佐に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
150年8月 隴西_樊国高樂城攻略戦に着手。
150年8月 高樂城を包囲戦の末、陥落させる。
151年10月 公安豐_宋ェに今後の忠誠を誓う。
152年6月 使者として齊郡_盆成国に赴き両国の同盟を締結させることに成功する。
152年10月 昆郷の戦いにおいて、長沙_紀軍と対戦。 陣頭に立つ、偽の退却で一度は敵を包囲するが、敗戦。 長沙_紀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり処刑。 享年 67歳。
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