145年1月 当時 47歳、東郡_郭樸に上大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年3月 營陵の戦いにおいて、桂林_覽軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
146年2月 春穀の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 江夏_頓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
146年6月 乘丘の戦いにおいて、東海_召軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 乘丘地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
146年11月 大陽の戦いにおいて、隴西_樊軍と対戦。 右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 大陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり隴西_樊軍士として登用される。
146年11月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年12月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
147年2月 樂浪_徐恭上士指揮のもと東郡_郭国觀治城攻略戦に参加。
147年3月 觀治城を包囲戦の末、陥落させる。
147年8月 長社の戦いにおいて、東海_召軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 東海_召領長社を制圧。 功績により上士に昇進。
147年10月 陳郡_盧侯下大夫指揮のもと東郡_郭国覇陵城攻略戦に参加。
148年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、覇陵城攻略は断念。 兵を退く。
148年2月 汝陽の地を拠点とする、陳郡_盧侯下大夫揮下の東部方面軍に配属。
148年4月 第2次歴陽の戦いにおいて、隴西_樊軍援軍として安豐_宋軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 功績により下大夫に昇進。
148年6月 第2次春穀の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
148年9月 楡次の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 江夏_頓領楡次を制圧。 功績により上大夫に昇進。
148年12月 第2次聊城の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
149年3月 安豐_宋国聊城城攻略戦に着手。
149年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、聊城城攻略は断念。 兵を退く。
149年7月 江夏_頓国祁郷城攻略戦に着手。
149年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、祁郷城攻略は断念。 兵を退く。
149年11月 安豐_宋国歴陽城攻略戦に着手。
149年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 歴陽城攻略は断念。 兵を退く。
150年3月 言符の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
150年5月 始成山の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 52歳。
|