145年1月 当時 16歳、東海_召毅に邑宰として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
146年9月 樂陽の地に赴任。
149年10月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
150年6月 便屏の地に赴任。
151年6月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
152年4月 西河_ケ湛下大夫指揮の長沙_紀軍に昆郷城を包囲される。
152年4月 長沙_紀軍の猛攻を防ぎきれず、昆郷城は落城する。
152年4月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
153年8月 安平_張興の支配する成皋の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから東陽_杜軍の人物関係をそれとなく理解する。
153年9月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、蜀郡_餘丘軍に仕官する。 彼が 25歳の時であった。
155年8月 離狐平原の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 代郡_韓領離狐を制圧。
155年8月 市樂の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 市樂地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
155年9月 廣陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
155年9月 安平_張班下大夫指揮の鬱林_雍門軍に廣陽城を包囲される。
155年9月 鬱林_雍門軍の猛攻を防ぎきれず、廣陽城は落城する。
155年9月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
158年6月 代郡_韓休の支配する城キの地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から瑯邪_義軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年7月 廣漢_包度の支配する敬武の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから代郡_韓軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年8月 西河_ケ湛の支配する宜春の地を訪れる。 この地の知者との話などから代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年9月 代郡_韓休の支配する水章の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから濟陰_張軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年10月 中山_學潜の支配する平阿の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから中山_學軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年11月 代郡_韓休の支配する壽春の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから楚郡_黄軍の人物関係をそれとなく理解する。
158年12月 代郡_韓休の支配する合肥の地を訪れる。 この地の知者との話などから西河_ケ軍の人物関係をそれとなく理解する。
159年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、中山_學軍に仕官する。 彼が 31歳の時であった。
159年2月 南皮の地を拠点とする、中山_學景中大夫揮下の西部方面軍に配属。
159年9月 国内の呉郡_劉紀と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
160年4月 第3次端氏の戦いにおいて、瑯邪_義軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 瑯邪_義領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
162年5月 天水_王峻公率いる天水_王軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である平陶城に立て籠もる。
162年9月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、天水_王軍は撤退。
162年9月 靈門城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
162年9月 平陶の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく天水_王軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
162年10月 秦郡_去疾国端氏城攻略戦に着手。
162年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 端氏城攻略は断念。 兵を退く。
163年1月 呉郡_將梁展宰相指揮のもと天水_王国清陽城攻略戦に参加。
163年4月 代郡_丁擧公率いる代郡_丁軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である肥成城に立て籠もる。
163年4月 度重なる代郡_丁軍の猛攻から 肥成城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
163年5月 弘農_錫純下大夫率いる代郡_丁軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である武功城に立て籠もる。
163年5月 武功城は強襲され、陥落。
163年5月 代郡_丁国に拠点武功を制圧され、自らの命を絶った。 享年 34歳。
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