148年11月 安平_張興の嫡子として元服し安平_張軍卿を拝命。
150年1月 敦煌_令狐滂下大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である成皋城に立て籠もる。
150年1月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 成皋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
150年1月 成皋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
150年7月 隴西_樊国成武城攻略戦に着手。
150年7月 城内への強行突入に成功、成武城を陥落させる。
151年12月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
151年12月 樂望の戦いにおいて、濟南_茅夷軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 濟南_茅夷領樂望を制圧。
152年3月 第2次離狐の戦いにおいて、濟南_茅夷軍と対戦。 陣頭に立つ、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
152年3月 濟南_茅夷国離狐城攻略戦に着手。
152年3月 城内への強行突入に成功、離狐城を陥落させる。
152年9月 水章の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
152年12月 鬱林_雍門国到城城攻略戦に着手。
152年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 到城城攻略は断念。 兵を退く。
153年4月 第2次水章の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 鬱林_雍門領水章を制圧。
153年5月 成皋の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
153年6月 鬱林_雍門国合治城攻略戦に着手。
153年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、合治城攻略は断念。 兵を退く。
153年9月 中廬東の戦いにおいて、河平_王軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 河平_王領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
153年10月 国内の酒泉_ケ陵斐に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
153年12月 鬱林_雍門国到城城攻略戦に着手。
153年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 到城城攻略は断念。 兵を退く。
154年2月 国内の汝陰_劉浩に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
154年3月 鬱林_雍門国白馬城攻略戦に着手。
154年9月 白馬南の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり鬱林_雍門軍士として登用される。
154年9月 鬱林_雍門嵩公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
154年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
155年8月 市樂の戦いにおいて、蜀郡_餘丘軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 蜀郡_餘丘領市樂を制圧。 功績により上士に昇進。
155年9月 廣陽の戦いにおいて、蜀郡_餘丘軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。
155年9月 蜀郡_餘丘国廣陽城攻略戦に着手。
155年9月 城内への強行突入に成功、廣陽城を陥落させる。
156年11月 国内の瑯邪_陳建に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
156年12月 吾豐山の攻防戦において、代郡_韓軍援軍として東郡_山軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 東郡_山領吾豐を制圧。
157年2月 瑯邪_陳建宰相指揮のもと武陵_張国蒲坂城攻略戦に参加。
158年8月 瑯邪_義軌中大夫率いる瑯邪_義軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄平城に立て籠もる。
158年8月 度重なる瑯邪_義軍の猛攻から 襄平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年8月 襄平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
159年10月 遼東_楊国廣阿城攻略戦に着手。
159年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 廣阿城攻略は断念。 兵を退く。
160年1月 第3次便屏の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく瑯邪_義軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
160年3月 瑯邪_義習公率いる瑯邪_義軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である便屏城に立て籠もる。
160年7月 瑯邪_義国に拠点便屏を制圧されるが、からくも脱出に成功。 再起にかける。
160年8月 趙郡_宰父沖士指揮のもと鬱林_雍門軍国便屏城攻略戦に参加。
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