経歴
|
157年1月 当時 22歳、居巣_突に上士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
157年2月 濮陽の地の方面軍を解任、首都に戻る。
157年5月 穀の戦いにおいて、垣雍_厳軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
157年6月 賛同する方城_項戚下大夫のはからいにより、 濮陽の地を拠点とする淮_爲發卿揮下、南西部方面軍に配属が決まる。
157年8月 弐_陰幸上大夫指揮のもと大戎_狼国朝歌城攻略戦に参加。
157年8月 城内への強行突入に成功、朝歌城を陥落させる。
157年12月 曹の戦いにおいて、大陵_李軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 大陵_李領曹を制圧。 功績により下大夫に昇進。
158年6月 弐_陰幸上大夫指揮のもと冶父_士国邯鄲城攻略戦に参加。
158年10月 邯鄲森の戦いにおいて、武城_左軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 武城_左領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
159年1月 邯鄲森の攻防戦において、武城_左軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 武城_左領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
159年8月 蒲騒_項最下大夫指揮のもと広武_騎国温城攻略戦に参加。
159年8月 城内への強行突入に成功、温城を陥落させる。
159年12月 洛邑北の戦いにおいて、冶父_士軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 冶父_士領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
160年5月 国内のケ_温倹に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
160年6月 濮陽西の攻防戦において、大戎_狼軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。
160年12月 厥貉_王官遁上大夫指揮のもと大梁_荊国沮陽城攻略戦に参加。
160年12月 沮陽城を包囲戦の末、陥落させる。
161年5月 厥貉_王官遁上大夫指揮のもと大陵_李国炎卩城攻略戦に参加。
161年5月 炎卩城を包囲戦の末、陥落させる。
162年7月 商丘平原の攻防戦において、京茲_婁軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 京茲_婁領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
162年10月 寿春西の攻防戦において、京茲_婁軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 京茲_婁領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
163年3月 唐川の戦いにおいて、楚丘_箕軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 楚丘_箕領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
163年7月 番陽北の攻防戦において、居巣_軍援軍として督陽_子師軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 督陽_子師領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり督陽_子師軍士として登用される。 功績により上士に昇進。
163年12月 鄭南の攻防戦において、大戎_狼軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
164年2月 陳西の攻防戦において、大戎_狼軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
164年6月 鄭西の攻防戦において、大戎_狼軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
164年10月 櫟邑平原の戦いにおいて、大戎_狼軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 大戎_狼領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
165年3月 沮陽東の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
165年6月 鉅鹿東の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
165年9月 武城平原の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
165年12月 杞南の戦いにおいて、京茲_婁軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
166年3月 国内の驪戎_滕毋に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
166年4月 聊川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 前衛を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
166年7月 広武_騎国に拠点濮陽を制圧されるが、 からくも脱出に成功。 再起にかける。
166年8月 国内の闘壽王に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
166年9月 來の地を拠点とする、ケ_温倹上大夫揮下の北部方面軍に配属。
167年11月 鄭平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
168年3月 敵侵攻によって孤立した來の地において、 暫定自治を始めたケ_温倹卿に従うことになる。
170年1月 來西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 來地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
170年1月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
173年8月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、広武_騎軍に仕官する。 彼が 38歳の時であった。
173年8月 高唐の地を拠点とする、梁丘_華廣利卿揮下の北東部方面軍に配属。
174年5月 国内の槐里_狐容に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
174年7月 高唐の地の方面軍を解任、首都に戻る。
174年10月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
174年10月 雲中東の戦いにおいて、大梁_荊軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 大梁_荊領雲中を制圧。
174年10月 厥貉_王官忌士指揮のもと大梁_荊国雲中城攻略戦に参加。
175年2月 雲中平原の戦いにおいて、大梁_荊軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 大梁_荊領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
175年7月 剣閣北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
176年1月 沮陽西の戦いにおいて、大梁_荊軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
176年3月 鼓森の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
176年6月 剣閣北の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領剣閣を制圧。
176年11月 賛同する槐里_狐容上士のはからいにより、 臨晋の地を拠点とする広武_騎同卿揮下、南東部方面軍に配属が決まる。
176年12月 督亢平原の攻防戦において、城潁_佚軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 城潁_佚領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
177年1月 臨晋の地の方面軍を解任、首都に戻る。
177年2月 賛同する槐里_狐容上士のはからいにより、 臨晋の地を拠点とする広武_騎同卿揮下、南東部方面軍に配属が決まる。
177年2月 方城山の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
177年9月 建為西の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
177年12月 唐西の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領唐を制圧。
178年3月 温南の攻防戦において、淮_爲軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
178年8月 西陵北の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領西陵を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 44歳。
|
|