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驪戎_滕毋
思想 野心 人望 智力 武力 名声
55 61 61 48 80 173

経歴

157年1月
 当時 21歳、蓋与_解岳に上士として仕える。
  奸臣であったと言われる。
   


157年3月
 襄国の戦いにおいて、大梁_荊軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   襄国地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


157年5月
 邯鄲森の攻防戦において、冶父_士軍と対戦。
  右翼騎を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により下大夫に昇進。
     


157年6月
 国内の葛_曾纏に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


160年12月
 晋陽川の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。
  前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    大梁_荊領晋陽を制圧。
     功績により中大夫に昇進。
      


161年7月
 国内の蓋与_解華に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


161年12月
 督亢東の攻防戦において、居巣_軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


162年12月
 襄国平原の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。
   襄国地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
     


163年4月
 督亢西の攻防戦において、居巣_軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   居巣_領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


163年5月
 君主死亡。
  仕える国を無くし放浪する。
   


164年12月
 在野にて、諸国を彷徨っていた後、居巣_軍に仕官する。
  彼が 28歳の時であった。
   


165年2月
 濮陽の北西部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


165年3月
 の地を拠点とする、ケ_温倹中大夫揮下の北部方面軍に配属。
  


165年3月
 沮陽東の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


165年7月
 薛南の戦いにおいて、京茲_婁軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
   薛地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


165年10月
 濮陽西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


166年3月
 国内の会稽_皋疵に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


166年4月
 聊川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   


166年7月
 濮陽平原の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   


166年9月
 梁丘_華廣利卿指揮の広武_騎軍に臨鯔城を包囲される。
  


166年9月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、臨鯔城は安泰を得る。
  


167年6月
 広武_騎国に拠点を制圧されるが、からくも脱出に成功。
  再起にかける。
   


167年6月
 斉北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  後衛を担い奮戦するが、敗戦。
   


167年8月
 鄭北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


167年11月
 の地を拠点とする、秦周_燕濤卿揮下の北西部方面軍に配属。
  


167年11月
 濮陽平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   濮陽地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


168年4月
 薛北の戦いにおいて、京茲_婁軍と対戦。
  左翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   京茲_婁領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


168年8月
 闘壽王卿指揮のもと京茲_婁国城攻略戦に参加。
  


168年8月
 城内への強行突入に成功、城を陥落させる。
  


168年12月
 祭北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


169年5月
 曹平原の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


169年6月
 敵侵攻によって孤立したの地において、
  暫定自治を始めた秦周_燕濤卿に従うことになる。
   


169年10月
 祭北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


170年4月
 広武_騎兌公指揮の広武_騎軍に濮陽城を包囲される。
  


170年4月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、濮陽城は安泰を得る。
  


170年5月
 濮陽の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


170年6月
 国内の淮_爲發に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
  


170年10月
 濮陽平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。
   


171年5月
 広武_騎同卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


171年7月
 合流先を失い、以後、秦周_燕濤公に従う。
  


171年9月
 駆けつけた援軍部隊が勝利し、広武_騎軍は撤退。
  


171年10月
 鄭平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  左翼を担い奮戦するが、敗戦。
   


171年10月
 広武_騎兌公指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


171年10月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


172年2月
 祭北の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


172年5月
 広武_騎性中大夫指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


172年5月
 国内の穀丘_崔申と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
  


172年9月
 駆けつけた援軍部隊が勝利し、広武_騎軍は撤退。
  


172年10月
 祭川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


173年1月
 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...


173年1月
 鄭西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


173年1月
 敵侵攻によって孤立したの地において、
  暫定自治を始めた淮_爲發卿に従うことになる。
   


173年8月
 朝歌森の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   朝歌地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


173年9月
 鄭平原の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


177年9月
 京北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


178年1月
 櫟邑西の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   櫟邑地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    


178年3月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


178年9月
 梁丘_華真卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


179年1月
 駆けつけた援軍部隊が勝利し、広武_騎軍は撤退。
  


179年4月
 霍東の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  前衛を担い、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    広武_騎領を制圧。
     


179年4月
 温川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


179年4月
 敵侵攻によって孤立したの地で暫定自治を始める。
  


179年9月
 無事、領土を守り、淮_爲發公に合流。
  名声を得る。
   


179年10月
 櫟邑北の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    広武_騎領櫟邑を制圧。
     功績により上士に昇進。
      


180年6月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


180年6月
 息子の驪戎_滕安平が元服し淮_爲軍士を拝命。
  


180年10月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により下大夫に昇進。
     


180年12月
 敵侵攻によって孤立したの地で暫定自治を始める。
  


181年2月
 温川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


181年3月
 合流先を失い、独立を決意。
  


181年6月
 温川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


181年6月
 梁丘_華喬如卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


181年6月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


181年12月
 温川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


181年12月
 広武_騎同公指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


181年12月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


182年3月
 驪戎_滕乗を養子に迎える。
  


182年6月
 温川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


182年6月
 梁丘_華真卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


182年9月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


182年11月
 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...


182年11月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


183年3月
 温川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


183年6月
 温川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


183年6月
 広武_騎同公指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


183年6月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


183年12月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


183年12月
 槐里_狐考卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


184年3月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


184年4月
 温川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   


184年4月
 梁丘_華真卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


184年7月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


184年8月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


184年11月
 温南の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


185年4月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


185年4月
 広武_騎同公指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


185年4月
 広武_騎軍は自軍の側背を考慮し撤退、城は安泰を得る。
  


185年12月
 驪戎_滕督を養子に迎える。
  


186年2月
 温南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


186年4月
 驪戎_滕徳を養子に迎える。
  


186年5月
 温川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


186年5月
 広武_騎嬰卿指揮の広武_騎軍に城を包囲される。
  


186年5月
 広武_騎軍の猛攻を防ぎきれず、城は落城する。
  


186年5月
 広武_騎国に拠点を制圧され降伏。
  捕虜となり処刑。
   享年 50歳。
    



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