経歴
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157年1月 当時 39歳、冶父_士梗に下大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
157年3月 ケの戦いにおいて、滑_荀軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 滑_荀領ケを制圧。
157年3月 この月の人事で、冶父_士国、文官として処務にあたる任を司る。
157年8月 太純卿の指示によって、地元の支持を得るべく方城の地への赴任が決まる。
157年12月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、方城の地をあとにする。
158年2月 国内の太孔に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
158年8月 項_范就宰相の指示によって、地元の経済の向上を目指し號の地への赴任が決まる。
158年8月 號の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
158年9月 項_范就宰相の指示によって、地元の経済の向上を目指し襄国の地への赴任が決まる。
158年9月 敵侵攻によって孤立した邯鄲の地において、 暫定自治を始めた武城_左它上士に従うことになる。
158年10月 邯鄲森の戦いにおいて、居巣_軍と対戦。 右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 この勝利により居巣_国に講和を結ばせることに成功。
159年1月 邯鄲森の攻防戦において、居巣_軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
159年5月 長子南の攻防戦において、居巣_軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 長子地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
160年9月 襄国北の攻防戦において、蓋与_解軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 襄国地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 功績により上大夫に昇進。
162年11月 息子の定陶_朝安民が元服し武城_左軍中大夫を拝命。
163年1月 鉅鹿川の攻防戦において、居巣_軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
163年8月 鉅鹿川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
164年1月 邯鄲西の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 邯鄲地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 47歳。
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