経歴
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166年1月 酸棗_梁談の嫡子として元服し広武_騎軍士を拝命。
166年9月 梁丘_華廣利卿指揮のもと居巣_国臨鯔城攻略戦に参加。
166年9月 留守の城を懸念し長期戦は避け、臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
167年2月 父である酸棗_梁談士のはからいにより、 臨晋の地を拠点とする広武_騎同卿揮下、南東部方面軍に配属が決まる。
167年4月 京平原の攻防戦において、大戎_狼軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
167年6月 臨晋の地の方面軍を解任、首都に戻る。
167年7月 父である酸棗_梁談士のはからいにより、 臨晋の地を拠点とする広武_騎同卿揮下、南東部方面軍に配属が決まる。
167年11月 鄭平原の戦いにおいて、居巣_軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 居巣_領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
167年12月 臨晋の地の方面軍を解任、首都に戻る。
168年2月 父である酸棗_梁談士のはからいにより、 臨晋の地を拠点とする広武_騎同卿揮下、南東部方面軍に配属が決まる。
168年8月 高梁_后粛中大夫指揮のもと漆_祁国藍田城攻略戦に参加。
168年8月 城内への強行突入に成功、藍田城を陥落させる。
169年4月 代南の戦いにおいて、大梁_荊軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 大梁_荊領代を制圧。
169年4月 広武_騎性中大夫指揮のもと大梁_荊国代城攻略戦に参加。
169年7月 留守の城を懸念し長期戦は避け、代城攻略は断念。 兵を退く。
170年3月 南鄭南の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
170年5月 父である酸棗_梁談上士のはからいにより、 平城の地を拠点とする甲氏_公孫泰卿揮下、 北部方面軍に配属が決まる。
170年10月 代南の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 大梁_荊領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
170年11月 平城の地の方面軍を解任、首都に戻る。
171年3月 広武_騎兌公指揮のもと秦周_燕国祭城攻略戦に参加。
171年3月 留守の城を懸念し長期戦は避け、祭城攻略は断念。 兵を退く。
171年5月 父である酸棗_梁談上士のはからいにより、 平城の地を拠点とする甲氏_公孫泰卿揮下、 北部方面軍に配属が決まる。
171年10月 梁丘_華喬如下大夫指揮のもと秦周_燕国祭城攻略戦に参加。
172年2月 祭北の戦いにおいて、秦周_燕軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 秦周_燕領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
172年3月 平城の地の方面軍を解任、首都に戻る。
173年2月 高密西の攻防戦において、滑_懿軍と対戦。 前衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 滑_懿領高密を制圧。
173年2月 梁丘_華茲上士指揮のもと滑_懿国高密城攻略戦に参加。
173年6月 督亢東の戦いにおいて、大梁_荊軍と対戦。 前衛を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 大梁_荊領督亢を制圧。
174年1月 申平原の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領申を制圧。
174年7月 陽楽の地を拠点とする、広武_騎嬰卿揮下の北東部方面軍に配属。
174年10月 許西の戦いにおいて、小戎_仲叔軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 小戎_仲叔領許を制圧。
174年10月 高梁_后莽下大夫指揮のもと小戎_仲叔国許城攻略戦に参加。
175年1月 留守の城を懸念し長期戦は避け、許城攻略は断念。 兵を退く。
176年2月 南鄭南の攻防戦において、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
176年12月 随北の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 前衛を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
177年4月 国内の梁丘_華喬如に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
177年8月 方城東の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
179年6月 琅邪南の攻防戦において、大陵_李軍と対戦。 右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 琅邪地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
179年9月 紀東の戦いにおいて、大陵_李軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
180年5月 予章北の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領予章を制圧。
180年7月 配属されていた陽楽の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
180年7月 舒の地を拠点とする、槐里_狐容卿揮下の南東部方面軍に配属。
180年12月 高梁_后粛卿指揮のもと畢国濮陽城攻略戦に参加。
181年4月 濮陽平原の戦いにおいて、畢軍と対戦。 右翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。 侵攻作戦は成功。 畢領濮陽を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 31歳。
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