経歴
|
170年11月 高梁_后粛の嫡子として元服し広武_騎軍上士を拝命。
170年12月 父である高梁_后粛上大夫のはからいにより、 平城の地を拠点とする甲氏_公孫泰卿揮下、 北部方面軍に配属が決まる。
171年3月 広武_騎兌公指揮のもと秦周_燕国祭城攻略戦に参加。
171年3月 留守の城を懸念し長期戦は避け、祭城攻略は断念。 兵を退く。
171年4月 翼の地を拠点とする方面軍に配属が決まる。
171年10月 梁丘_華喬如下大夫指揮のもと秦周_燕国祭城攻略戦に参加。
172年2月 祭北の戦いにおいて、秦周_燕軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 秦周_燕領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
172年5月 父である高梁_后粛上大夫のはからいにより、 平城の地を拠点とする甲氏_公孫泰卿揮下、 北部方面軍に配属が決まる。
172年5月 鄭平原の戦いにおいて、秦周_燕軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 秦周_燕領鄭を制圧。
172年5月 広武_騎性中大夫指揮のもと秦周_燕国鄭城攻略戦に参加。
172年9月 鄭西の攻防戦において、秦周_燕軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。 秦周_燕領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
172年10月 祭川の攻防戦において、秦周_燕軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い奮戦するが、敗戦。 秦周_燕領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
173年2月 高密西の攻防戦において、広武_騎軍援軍として滑_懿軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 滑_懿領高密を制圧。
173年6月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
173年6月 鼓東の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
174年1月 桐丘_牛国南鄭城攻略戦に着手。
174年3月 広武_騎兌公指揮のもと大梁_荊国沮陽城攻略戦に参加。
174年3月 城内への強行突入に成功、沮陽城を陥落させる。
174年10月 ケ川の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
175年8月 父である高梁_后粛卿指揮のもと大梁_荊国鼓城攻略戦に参加。
175年8月 城内への強行突入に成功、鼓城を陥落させる。
176年1月 梁丘_華喬如卿指揮のもと滑_懿国高密城攻略戦に参加。
176年5月 高密西の戦いにおいて、滑_懿軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 滑_懿領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
176年10月 楼煩東の攻防戦において、大梁_荊軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
177年1月 平城の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
177年2月 方城山の戦いにおいて、桐丘_牛軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 桐丘_牛領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
177年3月 平城の地を拠点とする方面軍は新たに呂_李上士が司令官に。
177年7月 平城の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
177年9月 父である高梁_后粛卿のはからいにより、 剣閣の地を拠点とする高梁_后粛卿揮下、南西部方面軍に配属が決まる。
177年9月 京北の攻防戦において、B.淮_爲軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 B.淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
177年10月 剣閣の地の方面軍を解任、首都に戻る。
178年1月 櫟邑西の戦いにおいて、淮_爲軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 淮_爲領櫟邑を制圧。 功績により下大夫に昇進。
178年2月 父である高梁_后粛卿のはからいにより、 剣閣の地を拠点とする高梁_后粛卿揮下、南西部方面軍に配属が決まる。
178年8月 長子山の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として淮_爲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
178年9月 剣閣の地の方面軍を解任、首都に戻る。
179年4月 温川の攻防戦において、淮_爲軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
179年5月 父である高梁_后粛卿のはからいにより、 剣閣の地を拠点とする高梁_后粛卿揮下、南西部方面軍に配属が決まる。
179年6月 琅邪南の攻防戦において、広武_騎軍援軍として大陵_李軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 琅邪地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
179年7月 剣閣の地の方面軍を解任、首都に戻る。
179年11月 沮陽_王括卿指揮のもと淮_爲国長子城攻略戦に参加。
179年11月 城内への強行突入に成功、長子城を陥落させる。
180年3月 父である高梁_后粛卿のはからいにより、 剣閣の地を拠点とする高梁_后粛卿揮下、南西部方面軍に配属が決まる。
180年12月 聊東の戦いにおいて、畢軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 畢領聊を制圧。 功績により中大夫に昇進。
181年8月 紀森の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として大陵_李軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 大陵_李領紀を制圧。
181年12月 温川の攻防戦において、驪戎_滕軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 驪戎_滕領温を制圧。 功績により上大夫に昇進。
181年12月 広武_騎同公指揮のもと驪戎_滕国温城攻略戦に参加。
181年12月 留守の城を懸念し長期戦は避け、温城攻略は断念。 兵を退く。
182年2月 公広武_騎同に今後の忠誠を誓う。
182年5月 予章北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として桐丘_牛軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 桐丘_牛領予章を制圧。
182年9月 新鄭_華国夷陵城攻略戦に着手。
183年2月 鄭南の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として淮_爲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
183年6月 温川の攻防戦において、広武_騎軍援軍として驪戎_滕軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 驪戎_滕領温を制圧。
183年8月 剣閣の地を拠点とする方面軍は新たに高梁_后捐上大夫が司令官に。
184年1月 鄭南の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として淮_爲軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 淮_爲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
184年6月 第2次曹の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として大陵_李軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 曹地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
184年10月 息子の高梁_后鳩が元服し広武_騎軍中大夫を拝命。
185年4月 紀森の攻防戦において、広武_騎軍援軍として大陵_李軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
185年7月 商丘北の攻防戦において、広武_騎軍援軍として京茲_婁軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 京茲_婁領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
186年8月 建為山の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領建為を制圧。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 32歳。
|
|