経歴
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237年10月 京茲_婁會宗の嫡子として元服し広武_騎軍上士を拝命。
238年3月 濮陽東の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
242年9月 国内の甲氏_燭密に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
248年6月 国内の広武_騎醜に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
252年3月 息子の京茲_婁奉世が元服し広武_騎軍士を拝命。
252年7月 黔中北の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 黔中地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
252年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
255年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 34歳の時であった。
255年1月 予章の地を拠点とする、新鄭_華萬上大夫揮下の東部方面軍に配属。
255年5月 息子の京茲_婁勒が元服し新鄭_華軍士を拝命。
256年8月 舒西の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
256年10月 翼南の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として広武_騎軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領翼を制圧。
257年8月 歴陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
257年12月 第2次歴陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領歴陽を制圧。
257年12月 新鄭_華錯宰相指揮のもと広武_騎国歴陽城攻略戦に参加。
258年4月 第3次歴陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
258年5月 予章の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
258年10月 歴陽川の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領歴陽を制圧。
258年10月 新鄭_華承卿指揮のもと広武_騎国歴陽城攻略戦に参加。
259年2月 歴陽西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
259年3月 第2次高唐の戦いにおいて、沮陽_王軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 沮陽_王領高唐を制圧。
260年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
260年2月 呉の地を拠点とする、楚丘_豊像卿揮下の南東部方面軍に配属。
260年3月 配属されていた呉の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
260年3月 許の地を拠点とする、新鄭_華孟卿揮下の西部方面軍に配属。
260年4月 來西の攻防戦において、徐軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 徐領來を制圧。
260年4月 新鄭_華承卿指揮のもと徐国來城攻略戦に参加。
260年4月 來城を包囲戦の末、陥落させる。
261年3月 楚丘_豊像卿指揮のもと営丘_后国櫟城攻略戦に参加。
261年3月 城内への強行突入に成功、櫟城を陥落させる。
261年7月 息子の京茲_婁赫が元服し新鄭_華軍士を拝命。
261年10月 楚丘_豊像卿指揮のもと広武_騎国楼煩城攻略戦に参加。
262年2月 楼煩南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 後衛騎を担い奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
262年10月 九原東の攻防戦において、新鄭_華軍援軍としてケ_仲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
263年11月 九原平原の攻防戦において、新鄭_華軍援軍としてケ_仲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
267年11月 国内の楚丘_豊信臣と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
273年2月 許城において病に伏せ逝去。 享年 51歳。
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