経歴
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252年3月 京茲_婁鍼の嫡子として元服し広武_騎軍士を拝命。
252年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
255年4月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 18歳の時であった。
256年8月 舒西の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で右翼を担い奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
256年10月 翼南の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領翼を制圧。
257年6月 南皮南の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として沮陽_王軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 沮陽_王領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
257年12月 第2次歴陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で左翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領歴陽を制圧。
257年12月 新鄭_華錯宰相指揮のもと広武_騎国歴陽城攻略戦に参加。
258年4月 第3次歴陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で左翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
258年10月 霍西の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として沮陽_王軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 沮陽_王領霍を制圧。
259年4月 晋陽西の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として沮陽_王軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 沮陽_王領晋陽を制圧。
260年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
260年6月 新鄭_華錯宰相指揮のもと沮陽_王国鉅鹿城攻略戦に参加。
260年10月 第2次鉅鹿の戦いにおいて、沮陽_王軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 沮陽_王領鉅鹿を制圧。
261年2月 咸陽南の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として営丘_后軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 営丘_后領咸陽を制圧。
262年4月 臨晋東の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として営丘_后軍と対戦。 後衛を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 営丘_后領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
263年11月 九原平原の攻防戦において、新鄭_華軍援軍としてケ_仲軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
266年12月 国内の落姑_司彊と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
273年2月 国内の厥貉_王官綜に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
273年3月 晋陽の地を拠点とする、厥貉_王官綜上士揮下の北東部方面軍に配属。
273年8月 国内の新鄭_華會宗に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
275年11月 賛同する新鄭_華會宗下大夫のはからいにより、 南皮の地を拠点とする新鄭_牛承卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
277年3月 国内の新鄭_華寵に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
280年2月 南皮の地の方面軍を解任、首都に戻る。
282年12月 君主新鄭_華重耳逝去。 この機会に独立を果たした新鄭_華韋に従うことを決める。
283年4月 新鄭_華韋王指揮のもと新鄭_華国剣閣城攻略戦に参加。
283年4月 城内への強行突入に成功、剣閣城を陥落させる。
283年6月 南鄭の地を拠点とする、大陵_冶寵下大夫揮下の北東部方面軍に配属。
283年12月 第2次咸陽の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
284年9月 大陵_冶督下大夫指揮のもと新鄭_華国巫城攻略戦に参加。
285年1月 第2次巫の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
285年6月 巴山の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領巴を制圧。
285年12月 第5次巴の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 巴地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり処刑。 享年 49歳。
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