経歴
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248年11月 陽綜の嫡子として元服し広武_騎軍士を拝命。
251年10月 厥貉_王官家の家名存続のため、現在の姓陽を改め、 厥貉_王官姓を名乗る。
252年7月 黔中北の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 父に随軍する形で右翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 黔中地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
252年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
285年12月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 52歳の時であった。
285年12月 唐の地を拠点とする、京茲_婁勒下大夫揮下の南東部方面軍に配属。
286年4月 第17次建為の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 左翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領建為を制圧。
287年6月 南鄭南の戦いにおいて、大陵_冶軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 大陵_冶領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
287年10月 南鄭南の戦いにおいて、大陵_冶軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 大陵_冶領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
288年2月 第4次庸の戦いにおいて、楚丘_豊軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 楚丘_豊領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
288年4月 国内の新鄭_牛に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
288年5月 一人の時間、ふと自分の人生を振り返ってみる。
288年6月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
288年6月 南鄭山の攻防戦において、大陵_冶軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 大陵_冶領南鄭を制圧。
288年6月 新鄭_華俶王指揮のもと大陵_冶国南鄭城攻略戦に参加。
288年6月 城内への強行突入に成功、南鄭城を陥落させる。
288年12月 新鄭_華俶王指揮のもと大陵_冶国咸陽城攻略戦に参加。
288年12月 城内への強行突入に成功、咸陽城を陥落させる。
289年8月 第5次庸の戦いにおいて、楚丘_豊軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 楚丘_豊領庸を制圧。
289年8月 新鄭_華俶王指揮のもと楚丘_豊国庸城攻略戦に参加。
289年8月 留守の城を懸念し長期戦は避け、庸城攻略は断念。 兵を退く。
290年1月 新鄭_華閼卿指揮のもと新鄭_華国翼城攻略戦に参加。
290年1月 城内への強行突入に成功、翼城を陥落させる。
290年7月 庸東の戦いにおいて、楚丘_豊軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 楚丘_豊領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
294年3月 蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
294年3月 新鄭_華閼卿指揮のもと新鄭_華国蜀城攻略戦に参加。
294年6月 留守の城を懸念し長期戦は避け、蜀城攻略は断念。 兵を退く。
295年2月 第3次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
296年2月 第6次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
297年3月 第9次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
298年9月 蜀北の攻防戦において、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
299年12月 広漢の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
300年3月 第2次広漢の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
300年9月 第10次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新鄭_華領蜀を制圧。
301年3月 第11次蜀の戦いにおいて、新鄭_華軍援軍として新鄭_華軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 新鄭_華領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
303年11月 唐城において病に伏せ逝去。 享年 71歳。
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