経歴
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232年11月 陽普の嫡子として元服し広武_騎軍士を拝命。
237年1月 君主広武_騎暹逝去。 この機会に独立を果たした広武_騎楙に従うことを決める。
237年10月 杞川の攻防戦において、広武_騎軍援軍として広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で後衛を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
238年4月 晋陽南の戦いにおいて、広武_騎軍援軍としてケ_仲軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
238年10月 杞北の戦いにおいて、広武_騎軍援軍として広武_騎軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。
239年1月 申南の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 父に随軍する形で前衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
240年2月 郢東の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。
242年6月 公広武_騎楙に今後の忠誠を誓う。
248年11月 息子の陽房が元服し広武_騎軍士を拝命。
251年10月 厥貉_王官家の家名存続のため、現在の姓陽を改め、 厥貉_王官姓を名乗る。
252年7月 黔中北の攻防戦において、新鄭_華軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 黔中地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
252年7月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
253年3月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、新鄭_華軍に仕官する。 彼が 37歳の時であった。
253年3月 唐の地を拠点とする、新鄭_華顕卿揮下の東部方面軍に配属。
253年3月 息子の厥貉_王官祖が元服し新鄭_華軍士を拝命。
253年8月 国内の新鄭_華宜に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
253年10月 第2次濮陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
254年1月 曹平原の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
254年6月 鄭の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり広武_騎軍士として登用される。
254年8月 第4次陳の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領陳を制圧。
254年11月 祭川の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領祭を制圧。
256年6月 藍田の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領藍田を制圧。
256年8月 舒西の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
256年11月 舒西の攻防戦において、広武_騎軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 広武_騎領舒を制圧。
257年3月 新鄭_華錯宰相指揮のもと広武_騎国向城攻略戦に参加。
257年3月 城内への強行突入に成功、向城を陥落させる。
257年8月 歴陽の戦いにおいて、広武_騎軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 広武_騎領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
258年5月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
258年5月 蒲南の攻防戦において、沮陽_王軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 沮陽_王領蒲を制圧。
258年10月 霍西の戦いにおいて、沮陽_王軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 沮陽_王領霍を制圧。
259年1月 新鄭_華錯宰相指揮のもと沮陽_王国長子城攻略戦に参加。
259年5月 長子の戦いにおいて、沮陽_王軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 沮陽_王領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
259年7月 新鄭_華宜卿指揮のもと沮陽_王国長子城攻略戦に参加。
259年7月 留守の城を懸念し長期戦は避け、長子城攻略は断念。 兵を退く。
260年1月 新鄭_華鳩中大夫指揮のもと徐国曲阜城攻略戦に参加。
261年1月 広武_騎国無終城攻略戦に着手。
261年1月 城内への強行突入に成功、無終城を陥落させる。
261年5月 賛同する新鄭_華宜卿のはからいにより、 晋陽の地を拠点とする新鄭_華宜卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
261年5月 新鄭_華承卿指揮のもと営丘_后国號城攻略戦に参加。
261年5月 號城を包囲戦の末、陥落させる。
261年9月 新鄭_華錯宰相指揮のもと広武_騎国薊城攻略戦に参加。
261年9月 城内への強行突入に成功、薊城を陥落させる。
262年3月 賛同する新鄭_華宜卿のはからいにより、 晋陽の地を拠点とする新鄭_華宜卿揮下、 北東部方面軍に配属が決まる。
262年3月 函谷関の戦いにおいて、営丘_后軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 営丘_后領函谷関を制圧。 功績により上士に昇進。
262年5月 新鄭_華孟卿指揮のもと広武_騎国督亢城攻略戦に参加。
262年10月 九原東の攻防戦において、ケ_仲軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 ケ_仲領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
263年2月 第3次臨晋の戦いにおいて、営丘_后軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 営丘_后領臨晋を制圧。
263年2月 新鄭_華コ卿指揮のもと営丘_后国臨晋城攻略戦に参加。
263年5月 留守の城を懸念し長期戦は避け、臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
264年3月 晋陽の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
268年5月 国内の東垣_薛纏に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
273年2月 国内の京茲_婁奉世に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
273年8月 太原城において病に伏せ逝去。 享年 57歳。
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