経歴
|
363年1月 新鄭_牛恩の嫡子として元服し敖倉_爲軍士を拝命。
363年3月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
363年9月 敖倉_爲称王の指示によって、地元の支持を得るべく櫟の地への赴任が決まる。
364年2月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 櫟の地をあとにする。
364年11月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく武城の地への赴任が決まる。
365年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、武城の地をあとにする。
366年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく邯鄲の地への赴任が決まる。
366年6月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 邯鄲の地をあとにする。
367年3月 軽い病にかかるが、数日で回復する。
367年5月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく晋陽の地への赴任が決まる。
367年10月 父の改姓に従い、旧姓新鄭_牛改め、南里_叔と名乗ることになる。
367年10月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 晋陽の地をあとにする。
368年7月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく代の地への赴任が決まる。
368年12月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 代の地をあとにする。
369年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく蜀の地への赴任が決まる。
370年2月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、蜀の地をあとにする。
370年11月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく唐の地への赴任が決まる。
371年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、唐の地をあとにする。
372年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく六の地への赴任が決まる。
372年6月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、六の地をあとにする。
373年3月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく蜀の地への赴任が決まる。
373年8月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、蜀の地をあとにする。
374年3月 国内の梁_張重耳と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
374年5月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく陽楽の地への赴任が決まる。
374年9月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、陽楽の地をあとにする。
375年6月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく薛の地への赴任が決まる。
375年10月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 薛の地をあとにする。
376年8月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく梁の地への赴任が決まる。
376年12月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 梁の地をあとにする。
377年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく隴西の地への赴任が決まる。
378年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、隴西の地をあとにする。
378年10月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく庸の地への赴任が決まる。
379年2月 大事を責め小事にはこだわらず、まずまずの成果は上げ、 庸の地をあとにする。
379年12月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく徐の地への赴任が決まる。
380年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、徐の地をあとにする。
381年1月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく鉅鹿の地への赴任が決まる。
381年5月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、鉅鹿の地をあとにする。
382年9月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく長子の地への赴任が決まる。
383年1月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 長子の地をあとにする。
383年12月 敖倉_爲昶王の指示によって、地元の支持を得るべく西陵の地への赴任が決まる。
384年1月 国内の新鄭_牛跪と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
384年2月 王敖倉_爲昶の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
384年12月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく曲阜の地への赴任が決まる。
385年4月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、曲阜の地をあとにする。
386年3月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の経済の向上を目指し雍の地への赴任が決まる。
386年9月 経済状況改善のそれなりの成果は上げ、雍の地をあとにする。
387年9月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の経済の向上を目指し陳倉の地への赴任が決まる。
388年3月 経済状況改善の成果をかろうじて上げ、陳倉の地をあとにする。
388年12月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく陳倉の地への赴任が決まる。
389年4月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、陳倉の地をあとにする。
390年9月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく北地の地への赴任が決まる。
391年2月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、北地の地をあとにする。
392年3月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく洛邑の地への赴任が決まる。
392年6月 息子の南里_叔須が元服し敖倉_爲軍士を拝命。
392年8月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 洛邑の地をあとにする。
393年5月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく武城の地への赴任が決まる。
393年9月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、武城の地をあとにする。
393年11月 国内の敖倉_爲侯に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
394年6月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく號の地への赴任が決まる。
394年11月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、號の地をあとにする。
394年11月 文官としての功績が評価され、上士に昇進。
395年11月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく徐の地への赴任が決まる。
396年4月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、徐の地をあとにする。
397年3月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく斉の地への赴任が決まる。
397年7月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、斉の地をあとにする。
398年3月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく即墨の地への赴任が決まる。
398年7月 才より努力を持って、住民支持向上のそれなりの成果は上げ、 即墨の地をあとにする。
399年8月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく紀の地への赴任が決まる。
399年12月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、紀の地をあとにする。
400年9月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく予章の地への赴任が決まる。
401年1月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、予章の地をあとにする。
402年8月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の経済の向上を目指し魏の地への赴任が決まる。
402年11月 国内の新鄭_華慈に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
403年2月 経済状況改善のそれなりの成果は上げ、魏の地をあとにする。
403年2月 文官としての功績が評価され、下大夫に昇進。
404年1月 国内の蕭_賈巫に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
404年3月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく徐の地への赴任が決まる。
404年8月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、徐の地をあとにする。
409年11月 咸陽城において病に伏せ逝去。 享年 62歳。
|
|