経歴
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384年2月 新鄭_華路の嫡子として元服し敖倉_爲軍士を拝命。
385年12月 この月の人事で、敖倉_爲国、文官として処務にあたる任を司る。
386年8月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく櫟の地への赴任が決まる。
386年11月 ただ周りを威圧し、評判が著しく悪いまま、櫟の地をあとにする。 そのことを知った、敖倉_爲浩王が激怒。 9ヶ月の謹慎処分を受ける。
389年3月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の経済の向上を目指しケの地への赴任が決まる。
389年9月 成果を上げるどころか、大失政をし、ケの地をあとにする。 そのことを知った、敖倉_爲浩王が激怒。 6ヶ月の謹慎処分を受ける。
392年12月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく雲中の地への赴任が決まる。
393年5月 軽微な罪の罪人に重刑を科し、住民らの不安を高めるなど失政をし、 雲中の地をあとにする。 そのことを知った、敖倉_爲浩王が激怒。 8ヶ月の謹慎処分を受ける。
396年10月 軽い病にかかるが、数日で回復する。
399年11月 敖倉_爲浩王の指示によって、地元の支持を得るべく聊の地への赴任が決まる。
400年3月 恒例の祭祀に招かれた際、宴のなか酩酊しきり不作法な振舞いなど反感を買い、 聊の地をあとにする。 そのことを知った、敖倉_爲浩王が激怒。 6ヶ月の謹慎処分を受ける。
403年6月 蕭_賈巫卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し歴陽の地への赴任が決まる。
403年12月 成果を上げるどころか、大失政をし、歴陽の地をあとにする。 そのことを知った、蕭_賈巫宰相が激怒。 8ヶ月の謹慎処分を受ける。
406年9月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく六の地への赴任が決まる。
406年10月 国内の敖倉_爲黙と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
407年1月 赴任中は出仕することがほとんど無いまま、たいした成果も上がらず、 六の地をあとにする。
408年10月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく紀の地への赴任が決まる。
409年3月 赴任中は出仕することがほとんど無いまま、たいした成果も上がらず、 紀の地をあとにする。
410年3月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく雍の地への赴任が決まる。
410年8月 住民支持向上の成果をかろうじて上げ、雍の地をあとにする。
411年10月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく高唐の地への赴任が決まる。
412年2月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、高唐の地をあとにする。
413年1月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく斉の地への赴任が決まる。
413年5月 赴任中は出仕することがほとんど無いまま、たいした成果も上がらず、 斉の地をあとにする。
414年4月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく蒲の地への赴任が決まる。
414年8月 ただ周りを威圧し、評判が著しく悪いまま、蒲の地をあとにする。 そのことを知った、蕭_賈巫宰相が激怒。 4ヶ月の謹慎処分を受ける。
416年3月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく聊の地への赴任が決まる。
416年7月 成果を上げるどころか、失政をし、聊の地をあとにする。 このことに関し、栄恂邑宰や関係者を買収。 蕭_賈巫宰相の耳にまで届かなかったという。
417年7月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく鐘離の地への赴任が決まる。
417年11月 贔屓がひどく、風評が芳しくないまま、鐘離の地をあとにする。 そのことを知った、蕭_賈巫宰相が激怒。 5ヶ月の謹慎処分を受ける。
419年5月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく鄭の地への赴任が決まる。
419年9月 軽微な罪の罪人に重刑を科し、住民らの不安を高めるなど失政をし、 鄭の地をあとにする。 そのことを知った、蕭_賈巫宰相が激怒。 6ヶ月の謹慎処分を受ける。
420年9月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく六の地への赴任が決まる。
420年12月 王敖倉_爲囂の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
420年12月 君主敖倉_爲囂逝去。 以後長男である敖倉_爲黙の継承権争いに力を貸す。 この時52歳。
421年1月 蕭_賈巫宰相の指示によって、地元の支持を得るべく北地の地への赴任が決まる。
421年5月 住民支持向上のたいした成果も上がらず、北地の地をあとにする。
421年6月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
421年6月 夷陵の地を拠点とする、蕭_賈王鮒中大夫揮下の南東部方面軍に配属。
421年10月 国内の蔡_灌充國と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
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