100年1月 当時 31歳、巴郡_忌攸に下大夫として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
100年3月 東來の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領東來を制圧。
100年8月 昌国の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年11月 第2次昌国の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
101年1月 第2次曲阜の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 新城_公子領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
101年4月 君主死亡によって野に下る。 そのころ、大規模に将兵の徴募を募っていた漢中_棘穰に仕官する。 士を拝命。
102年1月 蒲陽の地に赴任。
102年3月 蒲陽の地に赴任。
102年4月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
102年6月 平陽の地に赴任。
102年6月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
102年8月 平陽の地に赴任。
102年8月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
104年2月 少梁の地に赴任。
104年4月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 だが独立する力も無く、やむ終えなく汝南_張盤に従うことを決める。
105年9月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
105年12月 鉅野_魯樹中大夫指揮の武キ_懸潘軍に韓原城を包囲される。
105年12月 度重なる武キ_懸潘軍の猛攻から 韓原城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年2月 少梁の地に赴任。
106年6月 鉅野_魯樹中大夫指揮の武キ_懸潘軍に韓原城を包囲される。
106年9月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に洛陽城を包囲される。
106年9月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年12月 少梁の地に赴任。
107年1月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
107年4月 高奴の地に赴任。
107年4月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
107年6月 この地を訪れた帶方_衆他士から中山_學舎卿への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
107年7月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
108年4月 この地を訪れた蜀郡_斯忠上士から中山_學舎卿への賛同を呼びかけられ、 会談後、了承する。
108年5月 能力が認められ邑宰に推薦を受けるが、野心無く断る。
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