101年7月 動乱の時代に自分の力を試したく、義勇兵を募り挙兵。 廬江_甫爽矩の目に掛かり仕官。
101年10月 新野_堪囘卿指揮のもと漢中_輔国臨晋城攻略戦に参加。
102年2月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である剣閣城に立て籠もる。
102年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 剣閣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 剣閣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年9月 君主廬江_甫爽矩死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、武キ_懸潘胤に従うことを決める。
104年5月 臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い突撃により、敵将桂陽_參延上士を討ち取るなど、 活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領臨晋を制圧。 功績により上士に昇進。
104年8月 汝南_張盤下大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
104年8月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年8月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年10月 臨晋の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年1月 第2次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年2月 高密の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく陳留_盂軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年3月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
105年3月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年4月 臨晋の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年4月 第3次函谷関の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い突撃により、敵将天水_臧度士を討ち取るなど、 活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
105年9月 第2次臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
105年12月 汝南_張国韓原城攻略戦に着手。
105年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 韓原城攻略は断念。 兵を退く。
106年6月 汝南_張国韓原城攻略戦に着手。
106年8月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に函谷関城を包囲される。
106年8月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 函谷関城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年8月 息子の鉅野_魯揖が元服し武キ_懸潘軍士を拝命。
106年11月 義陽_魏統士率いる汝南_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
106年11月 度重なる汝南_張軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年11月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
106年12月 臨晋の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
107年3月 第2次陝城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
107年5月 鉅鹿_梁岳中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
107年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年5月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年8月 第4次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
108年2月 淮陽_陰參卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
108年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年2月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
108年7月 国内の武キ_懸潘弘と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
108年10月 息子の鉅野_魯曠が元服し武キ_懸潘軍士を拝命。
108年11月 東安_雙眞士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
108年12月 第5次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
109年2月 臨晋の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
109年3月 国内の廣陵_程粲に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
109年5月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国韓原城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、韓原城攻略は断念。 兵を退く。
109年11月 廣平_梁伶卿指揮のもと廣陵_張国韓原城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 韓原城攻略は断念。 兵を退く。
110年3月 敵侵攻によって孤立した臨晋の地で暫定自治を始める。
111年2月 濟北_范超士指揮の廣陵_張軍に臨晋城を包囲される。
111年2月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
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