100年1月 当時 66歳、漢中_輔基に下大夫として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年4月 上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 前衛を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。
100年4月 南康_盧深下大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
100年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、上党城攻略は断念。 兵を退く。
100年5月 魯陽の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 汝南_郭領魯陽を制圧。
100年8月 潁陽の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 陣頭に立つ、まんまと敵の挑発にのり部隊は混乱、敗戦。 汝南_郭領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
100年11月 国内の汝南_東宮才に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
100年12月 第2次上党の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領上党を制圧。
100年12月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと呉郡_董国上党城攻略戦に参加。
100年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 上党城攻略は断念。 兵を退く。
101年1月 函谷関の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 函谷関地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
101年4月 汝南_鄭統中大夫指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
101年8月 襄国の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
101年10月 新鄭の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 新鄭地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
101年11月 通路_爬羨上大夫率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である武城城に立て籠もる。
101年11月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 武城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年11月 武城城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年12月 武城の地を拠点とする方面軍は新たに臨海_馬寓下大夫が司令官に。
101年12月 河東_徐達中大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
101年12月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年12月 蒲陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年1月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である沮陽城に立て籠もる。
102年2月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 沮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 沮陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年2月 沮陽の北東部方面軍を解任、首邑に戻る。
102年3月 新興_西王愼上大夫率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である薊城に立て籠もる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した薊の地で暫定自治を始める。
102年4月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 薊城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年10月 象郡_賀特を養子に迎える。
102年11月 配下の汝南_鄭援の忠誠を得る。
103年2月 配下の象郡_賀特の忠誠を得る。
103年10月 2代王陳留_盂祕の勅命である、新城_公子貔公討つべしの檄文に従う。
104年2月 配下の平原_粟泰の忠誠を得る。
104年12月 2代王陳留_盂祕の勅命である、新城_公子貔公討つべしの檄文に従う。
105年4月 薊城において病に伏せ逝去。 享年 72歳。
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