100年1月 当時 40歳、漢中_輔基に下大夫として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年3月 平原_粟榮卿指揮のもと呉郡_董国成皋城攻略戦に参加。
100年3月 城内への強行突入に成功、成皋城を陥落させる。
100年4月 国内の平原_粟逸に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
100年6月 国内の鬱林_劉禮と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
100年9月 第2次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
100年10月 朝歌森の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領朝歌を制圧。
100年12月 第3次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
101年1月 邯鄲南の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領邯鄲を制圧。
101年3月 第4次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
101年6月 彭城_左史玄下大夫指揮のもと南郡_將軍国太原城攻略戦に参加。
101年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。 兵を退く。
101年9月 漢中_輔基公指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
101年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄国城攻略は断念。 兵を退く。
101年10月 新鄭の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 新鄭地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
101年10月 息子の臨海_馬攸が元服し漢中_輔軍上士を拝命。
101年11月 通路_爬羨上大夫率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である武城城に立て籠もる。
101年11月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 武城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年11月 武城城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年12月 河東_徐達中大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
101年12月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
102年3月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年3月 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年6月 鉅鹿の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
102年8月 国内の漢中_棘秀に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
102年9月 漢中_棘穰上大夫指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
102年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
103年1月 第2次高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領高唐を制圧。 功績により上大夫に昇進。
103年7月 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である東垣城に立て籠もる。
103年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 東垣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年7月 東垣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年8月 息子の臨海_馬謙が元服し象郡_賀軍上士を拝命。
103年10月 彭城_左史玄卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
103年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 臨鯔城攻略は断念。 兵を退く。
104年1月 国内の合浦_董登に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
104年4月 第2次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領臨鯔を制圧。 功績により卿に昇進。
104年4月 汝南_鄭援卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
104年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨鯔城攻略は断念。
104年10月 汝南_鄭援卿指揮のもと南郡_將軍国楼煩城攻略戦に参加。
104年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 楼煩城攻略は断念。 兵を退く。
105年2月 息子の臨海_馬亶が元服し象郡_賀軍下大夫を拝命。
105年3月 第3次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。
105年3月 新城_公子国臨鯔城攻略戦に着手。
105年3月 城内への強行突入に成功、臨鯔城を陥落させる。
105年6月 第4次聊城の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 呉郡_董領聊城を制圧。
105年7月 君主象郡_賀特死亡。 任地であった鉅鹿の地で旗揚げをする。
105年7月 敵侵攻によって孤立した東垣の地で暫定自治を始める。
106年7月 第3次鉅鹿の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
108年4月 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
108年4月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年10月 息子の臨海_馬朝が元服し臨海_馬軍中大夫を拝命。
108年11月 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年5月 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
109年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
109年11月 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
109年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年5月 東郡_尹熙中大夫指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
110年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
110年7月 息子の臨海_馬叡が元服し臨海_馬軍中大夫を拝命。
110年11月 鉅鹿城において病に伏せ逝去。 享年 51歳。
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