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臨海_馬寓
思想 野心 人望 智力 武力 名声
41 46 80 68 63 117
人をのせるのが上手い。

経歴    享年 51歳 < 60〜 110 >

100年1月
 当時 40歳、漢中_輔基に下大夫として仕える。
  主君を慕ってであったと言われる。
   


100年3月
 平原_粟榮卿指揮のもと呉郡_董国成皋城攻略戦に参加。
  


100年3月
 城内への強行突入に成功、成皋城を陥落させる。
  


100年4月
 国内の平原_粟逸に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


100年6月
 国内の鬱林_劉禮と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
  


100年9月
 第2次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  左翼を担い奮戦するが、敗戦。
   南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    


100年10月
 朝歌森の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領朝歌を制圧。
     


100年12月
 第3次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  右翼を担い奮戦するが、敗戦。
   南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


101年1月
 邯鄲南の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領邯鄲を制圧。
     


101年3月
 第4次晋陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、
   敗戦。
    南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
     


101年6月
 彭城_左史玄下大夫指揮のもと南郡_將軍国太原城攻略戦に参加。
  


101年6月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。
  兵を退く。
   


101年9月
 漢中_輔基公指揮のもと南郡_將軍国襄国城攻略戦に参加。
  


101年9月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄国城攻略は断念。
  兵を退く。
   


101年10月
 新鄭の戦いにおいて、汝南_郭軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
   新鄭地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
    最後尾で殿を努める。
     


101年10月
 息子の臨海_馬攸が元服し漢中_輔軍上士を拝命。
  


101年11月
 通路_爬羨上大夫率いる新城_公子軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である武城城に立て籠もる。
   


101年11月
 度重なる新城_公子軍の猛攻から 武城城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


101年11月
 武城城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


101年12月
 河東_徐達中大夫率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である蒲陽城に立て籠もる。
   


101年12月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 蒲陽城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年3月
 陳郡_陰覧上士率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である鉅鹿城に立て籠もる。
   


102年3月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


102年3月
 鉅鹿城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


102年3月
 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、
  暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
   


102年4月
 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
  


102年6月
 鉅鹿の南部方面軍を解任、首邑に戻る。
  


102年7月
 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し戦力差で優る敵に、みごと勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により中大夫に昇進。
     


102年8月
 国内の漢中_棘秀に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


102年9月
 漢中_棘穰上大夫指揮のもと南郡_將軍国城攻略戦に参加。
  


102年9月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城攻略は断念。
  兵を退く。
   


103年1月
 第2次高唐の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    新城_公子領高唐を制圧。
     功績により上大夫に昇進。
      


103年7月
 南郡_將軍翹公率いる南郡_將軍軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である東垣城に立て籠もる。
   


103年7月
 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 東垣城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


103年7月
 東垣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


103年8月
 息子の臨海_馬謙が元服し象郡_賀軍上士を拝命。
  


103年10月
 彭城_左史玄卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
  


103年10月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  臨鯔城攻略は断念。
   兵を退く。
    


104年1月
 国内の合浦_董登に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


104年4月
 第2次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    新城_公子領臨鯔を制圧。
     功績により卿に昇進。
      


104年4月
 汝南_鄭援卿指揮のもと新城_公子国臨鯔城攻略戦に参加。
  


104年7月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨鯔城攻略は断念。
  


104年10月
 汝南_鄭援卿指揮のもと南郡_將軍国楼煩城攻略戦に参加。
  


104年10月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、
  楼煩城攻略は断念。
   兵を退く。
    


105年2月
 息子の臨海_馬亶が元服し象郡_賀軍下大夫を拝命。
  


105年3月
 第3次臨鯔の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   


105年3月
 新城_公子国臨鯔城攻略戦に着手。
  


105年3月
 城内への強行突入に成功、臨鯔城を陥落させる。
  


105年6月
 第4次聊城の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    呉郡_董領聊城を制圧。
     


105年7月
 君主象郡_賀特死亡。
  任地であった鉅鹿の地で旗揚げをする。
   


105年7月
 敵侵攻によって孤立した東垣の地で暫定自治を始める。
  


106年7月
 第3次鉅鹿の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


108年4月
 隴西_季老混宰相指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
  


108年4月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


108年10月
 息子の臨海_馬朝が元服し臨海_馬軍中大夫を拝命。
  


108年11月
 淮陽_陰參卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
  


108年11月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


109年5月
 中山_學舎卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
  


109年5月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


109年11月
 新野_堪囘卿指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
  


109年11月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


110年5月
 東郡_尹熙中大夫指揮の河上_廖軍に鉅鹿城を包囲される。
  


110年5月
 度重なる河上_廖軍の猛攻から 鉅鹿城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


110年7月
 息子の臨海_馬叡が元服し臨海_馬軍中大夫を拝命。
  


110年11月
 鉅鹿城において病に伏せ逝去。
  享年 51歳。
   


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


合浦_董登 現在 56歳 臨海_馬国 卿
  君主、方面軍への忠誠
臨海_馬朝 現在 18歳 臨海_馬国 中大夫
  君主、方面軍への忠誠
臨海_馬謙 現在 23歳 臨海_馬国 公
  君主、方面軍への忠誠


敵視している武将


無し



敵視されている武将


河上_廖艷 現在 42歳 河上_廖国 公
  敵対国嫌悪
南郡_將軍耽 現在 32歳 臨海_馬国 士
  侵攻軍敗戦による敵意 敵君主
丹陽_張據 現在 42歳 廣陵_張国 邑宰
  迎撃軍敗戦による敵意 敵参謀