100年1月 当時 47歳、漢中_輔基に士として仕える。 能力アピールでの昇進であったと言われる。
100年2月 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく曲沃の地への赴任が決まる。
100年7月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 曲沃の地をあとにする。
100年10月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく魯陽の地への赴任が決まる。
101年3月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、魯陽の地をあとにする。
101年5月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく新鄭の地への赴任が決まる。
101年10月 新鄭の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
101年11月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく沮陽の地への赴任が決まる。
102年1月 沮陽の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
102年2月 恐怖で夢から覚めるが、内容は思い出せなかった。
102年3月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく武城の地への赴任が決まる。
102年3月 敵侵攻によって孤立した督亢の地において、 暫定自治を始めた漢中_棘穰上大夫に従うことになる。
102年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
102年4月 同じ暫定自治を行っていた、象郡_賀沛公に合流する。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 右翼を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
102年9月 漢中_棘穰上大夫指揮のもと南郡_將軍国代城攻略戦に参加。
102年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、代城攻略は断念。 兵を退く。
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