100年1月 当時 57歳、漢中_輔基に士として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく宜陽の地への赴任が決まる。
100年7月 住民支持向上のそれなりの成果は上げ、宜陽の地をあとにする。
100年7月 国内の陳留_潁珮と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
100年9月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく新鄭の地への赴任が決まる。
100年9月 国内の廣漢_環旦に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
101年1月 国内の樂平_橋助に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
101年3月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、新鄭の地をあとにする。
101年5月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく督亢の地への赴任が決まる。
101年12月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、督亢の地をあとにする。
102年1月 琅邪の北東部方面軍補佐の任を解任、首邑に戻る。
102年2月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく鉅鹿の地への赴任が決まる。
102年3月 鉅鹿の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
102年4月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく陝城の地への赴任が決まる。
102年7月 陝城の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
102年8月 漢中_輔基公の指示によって、地元の経済の向上を目指し洛陽の地への赴任が決まる。
103年1月 遼東_楊翼中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である宛城に立て籠もる。
103年1月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 宛城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年1月 宛城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年7月 遼東_楊翼中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である宛城に立て籠もる。
103年7月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 宛城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
103年7月 宛城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
103年11月 絳の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 右翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
104年3月 宛の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
104年3月 漢中_輔基公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
104年4月 漢中_輔基公の指示によって、地元の支持を得るべく朝歌の地への赴任が決まる。
104年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
105年3月 漢中_輔基公指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
105年5月 殷郡_梁融上士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である洛陽城に立て籠もる。
105年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 洛陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年5月 洛陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年6月 洛陽の東部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年7月 東平_張統中大夫率いる南郡_將軍軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である絳城に立て籠もる。
105年7月 度重なる南郡_將軍軍の猛攻から 絳城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年7月 絳城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年9月 君主漢中_輔基死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、汝南_張盤に従うことを決める。
105年11月 陝城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 左翼を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 63歳。
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