100年1月 当時 42歳、河上_廖艷に下大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年3月 南鄭の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年6月 第2次南鄭の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年9月 第3次南鄭の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
100年12月 第4次南鄭の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 南鄭地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
101年6月 武キ_懸潘胤下大夫率いる廬江_甫爽軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である広漢城に立て籠もる。
101年8月 度重なる廬江_甫爽軍の猛攻から 広漢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年8月 広漢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年2月 河上_廖艷公指揮のもと廬江_甫爽国剣閣城攻略戦に参加。
102年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、剣閣城攻略は断念。 兵を退く。
102年8月 広漢の戦いにおいて、廬江_甫爽軍と対戦。
103年1月 漢中_輔国宛城攻略戦に着手。
103年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。 兵を退く。
103年7月 漢中_輔国宛城攻略戦に着手。
103年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、宛城攻略は断念。 兵を退く。
103年7月 国内の殷郡_梁融に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
103年8月 配属されていた広漢の地の方面軍解散が決定。
104年2月 中山_學舎中大夫指揮のもと新野_堪国咸陽城攻略戦に参加。
104年2月 城内への強行突入に成功、咸陽城を陥落させる。
104年3月 公河上_廖艷に今後の忠誠を誓う。
104年9月 中山_學舎中大夫指揮のもと新野_堪国雍城攻略戦に参加。
104年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、雍城攻略は断念。
105年3月 中山_學舎中大夫指揮のもと東郡_尹国藍田城攻略戦に参加。
105年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、藍田城攻略は断念。 兵を退く。
105年7月 予章の地を拠点とする、中山_學舎上大夫揮下の南東部方面軍に配属。
105年9月 第3次城陽の戦いにおいて、高密_廖叔軍と対戦。 左翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 高密_廖叔領城陽を制圧。 功績により上大夫に昇進。
105年10月 予章の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
105年10月 櫟城の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として武キ_懸潘軍と対戦。 後衛を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により卿に昇進。
106年5月 隴西_季老混宰相指揮のもと陳留_盂国潁陽城攻略戦に参加。
106年5月 城内への強行突入に成功、潁陽城を陥落させる。
106年9月 汝南_張国陽擢城攻略戦に着手。
107年1月 陽擢の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
107年4月 黔中東の戦いにおいて、河間_毋車軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 河間_毋車領黔中を制圧。
107年4月 中山_學舎卿指揮のもと河間_毋車国黔中城攻略戦に参加。
107年4月 黔中城を強襲、陥落させる。
107年8月 国内の常山_盈鴦に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
107年9月 国内の呉郡_郭敖に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
107年11月 濮陽の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 一度は捕らえられたが釈放される。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 49歳。
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