100年1月 当時 55歳、廬江_甫爽矩に上士として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 この月の人事で、廬江_甫爽国、文官として処務にあたる任を司る。
100年3月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の支持を得るべく高奴の地への赴任が決まる。
100年7月 住民支持向上のまずまずの成果は上げ、高奴の地をあとにする。
100年9月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
100年12月 第4次南鄭の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 河上_廖領南鄭を制圧。 功績により下大夫に昇進。
101年6月 武キ_懸潘胤下大夫指揮のもと河上_廖国広漢城攻略戦に参加。
102年2月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である剣閣城に立て籠もる。
102年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 剣閣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 剣閣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年3月 剣閣の南西部方面軍を解任、首邑に戻る。
102年8月 広漢の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 前衛を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 58歳。
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