100年1月 当時 21歳、廬江_甫爽矩に士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
100年2月 新野_堪囘卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年3月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し櫟城の地への赴任が決まる。
100年11月 経済状況改善のそれなりの成果は上げ、櫟城の地をあとにする。
101年1月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し櫟城の地への赴任が決まる。
101年9月 経済状況改善の成果をかろうじて上げ、櫟城の地をあとにする。
101年11月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の支持を得るべく臨晋の地への赴任が決まる。
101年11月 臨晋の地で飢えに苦しむ人々や荒んだ状況を目の当たりにする。
102年2月 その人脈を持って、魏郡_將軍攸邑宰の叛乱計画を知り、 城門を強行突破し帰路につく。
102年2月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
102年8月 新野_堪囘卿指揮のもと漢中_輔国韓原城攻略戦に参加。
102年8月 虞城西の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、 敗戦。 漢中_輔領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
102年9月 君主廬江_甫爽矩死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、武キ_懸潘胤に従うことを決める。
104年5月 臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領臨晋を制圧。
104年8月 汝南_張盤下大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
104年8月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年8月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年1月 第2次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年2月 高密の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく陳留_盂軍と対戦。 左翼騎を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年3月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
105年3月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年9月 第2次臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年11月 陝城の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 右翼を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
106年2月 梓潼_韓純士指揮のもと汝南_張国虞城攻略戦に参加。
106年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、虞城攻略は断念。 兵を退く。
106年6月 鉅野_魯樹中大夫指揮のもと汝南_張国韓原城攻略戦に参加。
106年10月 少梁の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 右翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
106年11月 義陽_魏統士率いる汝南_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
106年11月 度重なる汝南_張軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年11月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年5月 鉅鹿_梁岳中大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
107年5月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
107年5月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
107年8月 第4次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
108年2月 淮陽_陰參卿率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
108年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年2月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
108年11月 東安_雙眞士率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
108年11月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
108年11月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
108年12月 第5次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。
109年2月 国内の武キ_懸潘弘に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
109年3月 息子の濟北_大戊祥が元服し河上_廖軍士を拝命。
109年7月 虞城の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 31歳。
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