100年1月 当時 25歳、呉郡_董竒に卿として仕える。 卿適任であったと言われる。
100年4月 南康_盧深下大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年4月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
100年6月 鉅鹿の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 鉅鹿地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
100年9月 第2次鉅鹿の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。 侵攻作戦は成功。 南郡_將軍領鉅鹿を制圧。
100年12月 汝南_鄭統中大夫指揮の漢中_輔軍に上党城を包囲される。
100年12月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 上党城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年1月 現在は次期後継者として有望な長男呉郡_董佑を擁立する時期と見る。
101年4月 国内の太原_張洪に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
101年5月 一人の時間、ふと自分の人生を振り返ってみる。
103年5月 国内の上谷_唐邵に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
103年10月 新城_公子国邯鄲城攻略戦に着手。
103年10月 城内への強行突入に成功、邯鄲城を陥落させる。
104年4月 第3次聊城の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 新城_公子領聊城を制圧。
104年4月 邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 陣頭に立つ、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
104年11月 国内の樂平_陸儒に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
105年5月 第2次邯鄲の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年12月 息子の桂陽_柏成斌が元服し呉郡_董軍上大夫を拝命。
106年6月 第3次上党の戦いにおいて、南郡_將軍軍と対戦。 左翼騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
106年6月 東平_張統上大夫指揮の南郡_將軍軍に上党城を包囲される。
106年6月 南郡_將軍軍の猛攻を防ぎきれず、上党城は落城する。
106年6月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
107年10月 河上_廖艷の支配する番陽の地を訪れる。 病で世話になった医者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年11月 河上_廖艷の支配する高奴の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
107年12月 陳留_盂祕の支配する呉の地を訪れる。 この地の知者との話などから河上_廖軍の人物関係をそれとなく理解する。
108年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、河上_廖軍に仕官する。 彼が 34歳の時であった。
108年1月 朝歌の地を拠点とする、豫章_陳桑上士揮下の北東部方面軍に配属。
108年3月 廣平_梁全上大夫指揮のもと尋陽_勒国太原城攻略戦に参加。
108年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、太原城攻略は断念。 兵を退く。
108年4月 国内の日南_王咨と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
108年8月 隴西_季老混宰相指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
108年12月 第5次函谷関の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 右翼騎を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 武キ_懸潘領函谷関を制圧。 功績により上士に昇進。
108年12月 隴西_季老混宰相指揮のもと武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に参加。
109年1月 朝歌の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
109年2月 函谷関城を包囲戦の末、陥落させる。
109年7月 野王の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 左翼騎を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領野王を制圧。 功績により下大夫に昇進。
109年11月 新野_堪囘卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
110年4月 第2次野王の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領野王を制圧。 功績により中大夫に昇進。
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