100年1月 当時 58歳、新城_公子貔に下大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
100年2月 陽楽の地の方面軍を解任、首都に戻る。
100年3月 曲阜の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 右翼を担い、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により中大夫に昇進。
100年4月 新城_公子貔公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年5月 新城_公子貔公の指示によって、地元の経済の向上を目指し薊の地への赴任が決まる。
100年7月 薊の地が戦地になるとの事前連絡があり、 帰還が命ぜられる。
100年9月 新興_西王j宰相の指示によって、地元の支持を得るべく穀城の地への赴任が決まる。
101年2月 才より努力を持って、住民支持向上のまずまずの成果は上げ、 穀城の地をあとにする。
101年5月 陳留_盂祕王率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高密城に立て籠もる。
101年5月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 高密城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年5月 高密城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年9月 淮陽_陰參上大夫指揮のもと陳留_盂国琅邪城攻略戦に参加。
101年12月 陳留_盂祕王率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
101年12月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
101年12月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年7月 第2次武城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 象郡_賀領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
102年7月 定陶の戦いにおいて、金城_浩軍と対戦。 前衛騎を担い奮戦するが、敗戦。
102年7月 敵侵攻によって孤立した高陽の地において、 暫定自治を始めた新興_西王j卿に従うことになる。
102年10月 無事、領土を守り、新城_公子貔公に合流。
103年1月 南皮の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 最後尾で殿を努める。
103年5月 第2次聊城の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
103年8月 上郡_宋都宰相指揮のもと高密_廖叔国城陽城攻略戦に参加。
103年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城陽城攻略は断念。 兵を退く。
103年11月 淮陽_張瑾宰相率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である高陽城に立て籠もる。
104年2月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 高陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年2月 高陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年4月 第3次聊城の戦いにおいて、呉郡_董軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 聊城地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。
104年4月 第2次臨鯔の戦いにおいて、象郡_賀軍と対戦。 左翼騎を担い、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
104年10月 北海_楊徇宰相率いる陳留_盂朝彭城帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である濮陽城に立て籠もる。
104年12月 敵侵攻によって孤立した濮陽の地で暫定自治を始める。
105年1月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 合流先を失い、独立を決意。
105年7月 濮陽平原の戦いにおいて、陳留_盂軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
105年7月 陳留_盂祕王指揮の陳留_盂朝彭城帝国軍に濮陽城を包囲される。
105年7月 度重なる陳留_盂朝彭城帝国軍の猛攻から 濮陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
106年4月 濮陽城において病に伏せ逝去。 享年 65歳。
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