100年1月 当時 26歳、陳留_盂祕に下大夫として仕える。 主君を慕ってであったと言われる。
100年3月 曲阜の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 新城_公子領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 最後尾で殿を努める。
100年8月 琅邪の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。 左翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
100年12月 新城_公子貔公率いる新城_公子軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である雎陽城に立て籠もる。
100年12月 度重なる新城_公子軍の猛攻から 雎陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
100年12月 雎陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
101年3月 第2次高陽の戦いにおいて、新城_公子軍と対戦。
101年6月 新城_公子国高陽城攻略戦に着手。
101年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高陽城攻略は断念。 兵を退く。
102年10月 国内の淮陽_張獻に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
103年11月 蜀郡_斯忠卿指揮のもと新城_公子国曲阜城攻略戦に参加。
103年11月 城内への強行突入に成功、曲阜城を陥落させる。
104年2月 新城_公子国潁陽城攻略戦に着手。
104年4月 上谷_滕晞下大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である六城に立て籠もる。
104年4月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 六城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年4月 六城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年10月 陳留_盂朝彭城帝国宰相の任に抜擢される。 同時に方面軍総司令官の任を解かれ、首邑に戻る。
104年10月 新城_公子国濮陽城攻略戦に着手。
105年1月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、濮陽城攻略は断念。 兵を退く。
105年3月 六の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年6月 第2次六の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 六地区は放棄、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
105年11月 鉅鹿_梁岳下大夫率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である舒城に立て籠もる。
106年4月 河上_廖国に拠点舒を制圧されるが、からくも脱出に成功。 再起にかける。
106年5月 隴西_季老混宰相率いる河上_廖軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である潁陽城に立て籠もる。
106年5月 河上_廖軍の猛攻を防ぎきれず、潁陽城は落城する。
106年5月 河上_廖国に拠点潁陽を制圧され降伏。 捕虜となるも助命され河上_廖軍上大夫を拝命。
106年6月 予章の地を拠点とする、遼東_楊翼卿揮下の南東部方面軍に配属。
106年6月 第2次櫟城の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 右翼を担い、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
106年7月 息子の北海_楊嵩が元服し河上_廖軍中大夫を拝命。
107年2月 陳西の攻防戦において、陳留_盂軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 陳留_盂領陳を制圧。 功績により卿に昇進。
107年3月 予章の南東部方面軍を解任、首邑に戻る。
107年4月 武キ_懸潘国函谷関城攻略戦に着手。
107年8月 第4次函谷関の戦いにおいて、武キ_懸潘軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 武キ_懸潘領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 33歳。
|