100年2月 廬江_甫爽矩の養子に迎えられ廬江_甫爽軍下大夫を拝命。
100年6月 第2次南鄭の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 左翼騎を担い奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
100年8月 公廬江_甫爽矩に今後の忠誠を誓う。
100年9月 第3次南鄭の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 後衛騎を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
100年12月 後の世まで、その名声を轟かせることになる戦いがおこる...
100年12月 第4次南鄭の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 河上_廖領南鄭を制圧。
101年1月 函谷関の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 父に随軍する形で前衛を担い、いくつかの敵部隊を粉砕し活躍、勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領函谷関を制圧。
101年6月 武キ_懸潘胤下大夫指揮のもと河上_廖国広漢城攻略戦に参加。
101年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、広漢城攻略は断念。 兵を退く。
101年11月 漢中_輔国陝城攻略戦に着手。
102年2月 河上_廖艷公率いる河上_廖軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である剣閣城に立て籠もる。
102年2月 度重なる河上_廖軍の猛攻から 剣閣城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
102年2月 剣閣城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
102年7月 陝城西の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼を担い突撃により、敵将汝南_鄭澄上士を討ち取るなど、 活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領陝城を制圧。
102年8月 広漢の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 前衛を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜になるを良しとせず自害。 享年 44歳。
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