106年7月 北海_楊徇の嫡子として元服し河上_廖軍中大夫を拝命。
106年7月 国内の蜀郡_斯忠に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
107年12月 第3次平陽の戦いにおいて、河上_廖軍援軍として南郡_將軍軍と対戦。 後衛を担い奮戦するが、敗戦。 南郡_將軍領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
108年2月 配属されていた予章の地の方面軍解散が決定。 首邑に戻る。
108年2月 城陽の地を拠点とする、風洪卿揮下の東部方面軍に配属。
108年2月 淮陽_陰參卿指揮のもと武キ_懸潘国臨晋城攻略戦に参加。
108年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、臨晋城攻略は断念。 兵を退く。
108年3月 国内の中山_學舎に今後とも協力して関係にあたることを誓う。
108年10月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国曲沃城攻略戦に参加。
108年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 曲沃城攻略は断念。 兵を退く。
109年5月 中山_學舎卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
109年11月 新野_堪囘卿指揮のもと臨海_馬国鉅鹿城攻略戦に参加。
109年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 鉅鹿城攻略は断念。 兵を退く。
110年4月 第2次野王の戦いにおいて、廣陵_張軍と対戦。 後衛を担い、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 侵攻作戦は成功。 廣陵_張領野王を制圧。
110年9月 河上_廖延卿指揮のもと廣陵_張国函谷関城攻略戦に参加。
111年1月 廣陵_張混卿率いる廣陵_張軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陽擢城に立て籠もる。
111年1月 度重なる廣陵_張軍の猛攻から 陽擢城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
111年1月 陽擢城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
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