100年1月 当時 52歳、廬江_甫爽矩に士として仕える。 適材適所の配属であったと言われる。
100年2月 新野_堪囘卿の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
100年8月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の経済の向上を目指し北地の地への赴任が決まる。
101年4月 経済状況改善のそれなりの成果は上げ、北地の地をあとにする。
101年6月 新野_堪囘卿の指示によって、地元の支持を得るべく南鄭の地への赴任が決まる。
102年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
102年8月 廬江_甫爽矩公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
102年9月 廬江_甫爽矩公の指示によって、地元の支持を得るべく函谷関の地への赴任が決まる。
102年9月 君主廬江_甫爽矩の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
102年9月 君主廬江_甫爽矩死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、武キ_懸潘胤に従うことを決める。
103年3月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
104年5月 臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、勝利。 侵攻作戦は成功。 漢中_輔領臨晋を制圧。
104年8月 汝南_張盤下大夫率いる漢中_輔軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
104年8月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
104年8月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
104年11月 臨晋の北部方面軍を解任、首邑に戻る。
105年1月 第2次函谷関の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく漢中_輔軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年3月 漢中_輔基公率いる漢中_輔軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、 野戦をあきらめ、国境である臨晋城に立て籠もる。
105年3月 度重なる漢中_輔軍の猛攻から 臨晋城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
105年3月 臨晋城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
105年9月 第2次臨晋の戦いにおいて、漢中_輔軍と対戦。 左翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
105年11月 陝城の戦いにおいて、汝南_張軍と対戦。 左翼騎を担い、敵側面への攻撃等、奮戦するが、敗戦。 汝南_張領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
106年6月 第2次櫟城の戦いにおいて、河上_廖軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 河上_廖領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
106年8月 臨晋城において病に伏せ逝去。 享年 59歳。
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