145年1月 当時 22歳、東陽_杜勝に中大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年2月 臨平の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
145年3月 梁期の戦いにおいて、河内_李軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
145年3月 象郡_北野珪下大夫率いる河内_李朝昌陽帝国軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である臨平城に立て籠もる。
145年4月 臨平の地を拠点とする方面軍は新たに零陵_許陶宰相が司令官に。
145年7月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、昌陽帝国軍は撤退。
145年8月 東陽_杜勝公指揮のもと河内_李国華望城攻略戦に参加。
145年10月 華望城は停戦命令のため撤退。
146年1月 勃海_梅輯下大夫率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である廣望城に立て籠もる。
146年1月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年1月 廣望城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
146年4月 廣望の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
146年5月 穀昌の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
146年9月 呉郡_張慮下大夫率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である廣望城に立て籠もる。
146年9月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
146年9月 廣望城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
146年10月 廣望の地を拠点とする方面軍は新たに汲郡_不弟宇宰相が司令官に。
147年1月 第2次穀昌の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく代郡_韓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 敵侵攻軍を撃退。
147年3月 勃海_梅輯下大夫率いる代郡_韓軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である廣望城に立て籠もる。
147年3月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
147年3月 廣望城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
147年5月 廣望の地を拠点とする方面軍は新たに汲郡_不弟宇宰相が司令官に。
147年8月 巴西_相里国吾豐城攻略戦に着手。
147年12月 吾豐の戦いにおいて、巴西_相里軍と対戦。
148年1月 巴西_相里国吾豐城攻略戦に着手。
148年2月 楚郡_黄晏士指揮の代郡_韓軍に廣望城を包囲される。
148年2月 度重なる代郡_韓軍の猛攻から 廣望城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年4月 吾豐城を包囲戦の末、陥落させる。
148年7月 達昌の戦いにおいて、北地_苗軍と対戦。
148年10月 東陽_杜鮑卿指揮のもと北地_苗国達昌城攻略戦に参加。
148年10月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 達昌城攻略は断念。 兵を退く。
148年11月 第2次吾豐の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 左翼を担い、敵の攻撃で自己の部隊は崩壊したものの、味方の助けもあり勝利。 敵侵攻軍を撃退。 自身は乱戦の中、戦死。 享年 26歳。
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