145年1月 当時 29歳、河内_李王朝が中華を人類史上初めて統一して145年が過ぎ、 王朝にも衰退の兆しが見えた。 そんな時代に兵を挙げた、地方叛乱軍の指導者である。
145年2月 零陵_許陶卿を、東陽_杜国宰相に任ずる。
145年8月 河内_李国華望城攻略戦に着手。
145年10月 華望城は停戦命令のため撤退。
146年1月 5代王河内_李純の勅命である、代郡_韓輔公討つべしの檄文に従う。
146年1月 城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
146年3月 息子の東陽_杜鮑が元服し東陽_杜軍卿を拝命。
146年4月 汲郡_不弟宇中大夫を、東陽_杜国宰相に抜擢する。
146年4月 5代王河内_李純の勅命である、金城_祁明公討つべしの檄文に従う。
146年11月 巴西_相里国高陽城攻略戦に着手。
146年11月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 高陽城攻略は断念。 兵を退く。
147年8月 代郡_韓国城キ城攻略戦に着手。
147年8月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城キ城攻略は断念。 兵を退く。
147年8月 配下の汲郡_不弟宇の忠誠を得る。
147年9月 息子の東陽_杜鮑が元服し東陽_杜軍中大夫を拝命。
148年11月 第2次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 自身は乱戦の中、少数の部下と共に戦場を離脱。
149年1月 配下の桂陽_劉暉の忠誠を得る。
149年2月 代郡_韓国城キ城攻略戦に着手。
149年2月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、城キ城攻略は断念。 兵を退く。
149年9月 安悳の戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ、いくつかの敵部隊を粉砕し奮戦するが、敗戦。 代郡_韓領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
149年9月 地方叛乱軍指導者であった馮翊_陸徽が同志となり戦力が増す。
151年1月 配下の鴈門_叔孫俊の忠誠を得る。
152年4月 宣城_扶袤下大夫を、東陽_杜国宰相に抜擢する。
152年8月 昌陽の戦いにおいて、鬱林_雍門軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、奮戦するが、大軍を活かせず、まさかの敗戦。 鬱林_雍門領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。
152年11月 第6次城キの戦いにおいて、代郡_韓軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。
152年11月 東陽_杜国城キ城攻略戦に着手。
154年4月 始平_盤国粟邑城攻略戦に着手。
154年4月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、粟邑城攻略は断念。 兵を退く。
154年4月 地方叛乱軍指導者であった北海_廐徴が同志となり戦力が増す。
154年5月 北海_廐徴上大夫を、東陽_杜国宰相に抜擢する。
154年6月 清河_肩衍邑宰を、東陽_杜国宰相に抜擢する。
155年1月 息子の東陽_杜輔が元服し東陽_杜軍中大夫を拝命。
155年7月 代郡_韓国に降伏、旧領は没収されたが、上大夫の地位を拝命。
155年7月 代郡_韓休公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
155年8月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ、前線の武官としての活躍を期待される。
155年9月 国内の酒泉_祝遠に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
155年10月 成固の地を拠点とする北東部方面軍の総司令官に任命される。
155年10月 臨平の戦いにおいて、代郡_丁軍と対戦。
156年2月 廣陵_荀国青蛉城攻略戦に着手。
156年3月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、青蛉城攻略は断念。 兵を退く。
156年6月 東郡_山国吾豐城攻略戦に着手。
156年6月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、吾豐城攻略は断念。 兵を退く。
156年9月 趙郡_宰父国高陽城攻略戦に着手。
156年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高陽城攻略は断念。 兵を退く。
156年12月 吾豐山の攻防戦において、東郡_山軍と対戦。 陣頭に立つ、勝利。 侵攻作戦は成功。 東郡_山領吾豐を制圧。
157年3月 廬江_孟竝宰相指揮のもと東郡_巫国吾豐城攻略戦に参加。
157年3月 吾豐城を包囲戦の末、陥落させる。
157年7月 廣陵_荀国青蛉城攻略戦に着手。
157年7月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、青蛉城攻略は断念。 兵を退く。
157年9月 平皋の戦いにおいて、中山_學軍と対戦。 陣頭に立つ、敵の退路を絶つ等、活躍し、戦力差で優る敵に、みごと勝利。 敵侵攻軍を撃退。
157年12月 高陽川の戦いにおいて、趙郡_宰父軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。 趙郡_宰父領高陽を制圧。
157年12月 廬江_孟竝宰相指揮のもと趙郡_宰父国高陽城攻略戦に参加。
157年12月 城内への強行突入に成功、高陽城を陥落させる。
158年5月 雲南_子枋存士率いる代郡_丁軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である陰平城に立て籠もる。
158年5月 度重なる代郡_丁軍の猛攻から 陰平城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
158年5月 陰平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
158年6月 陰平の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
158年8月 廣陵_荀甫公率いる廣陵_荀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄非城に立て籠もる。
158年8月 国内の東郡_魯建に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
158年9月 襄非の地を拠点とする方面軍に配属が決定。
158年9月 敵侵攻によって孤立した襄非の地で暫定自治を始める。
158年12月 駆けつけた援軍部隊が勝利し、廣陵_荀軍は撤退。
158年12月 第3次襄非の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく廣陵_荀軍と対戦。 陣頭に立つ、敵側面への攻撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
159年1月 合流先を失い、独立を決意。
159年5月 廣陵_荀隱卿指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
159年5月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
159年11月 廣陵_荀奉中大夫指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
159年11月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年5月 廣陵_荀奉中大夫指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
160年5月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年10月 東陽_杜鑒を養子に迎える。
160年11月 廣陵_荀奉中大夫指揮の廣陵_荀軍に襄非城を包囲される。
160年11月 度重なる廣陵_荀軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
160年12月 配下の東陽_杜鑒の忠誠を得る。
163年8月 東陽_杜鑒士指揮の呉興_蒋軍に襄非城を包囲される。
163年8月 度重なる呉興_蒋軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
164年2月 呉興_蒋含下大夫指揮の呉興_蒋軍に襄非城を包囲される。
164年2月 度重なる呉興_蒋軍の猛攻から 襄非城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
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