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勃海_梅輯
思想 野心 人望 智力 武力 名声
-44 10 66 65 68 107
運と家督で地位を築く。

経歴    享年 37歳 < 119〜 155 >

145年3月
 南陽_呂支中大夫率いる河内_李朝昌陽帝国軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である嘉平城に立て籠もる。
   


145年3月
 度重なる河内_李朝昌陽帝国軍の猛攻から 嘉平城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


145年3月
 嘉平城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


145年8月
 代郡_韓輔公指揮のもと河内_李国吾豐城攻略戦に参加。
  


145年8月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、吾豐城攻略は断念。
  兵を退く。
   


146年1月
 東陽_杜国廣望城攻略戦に着手。
  


146年1月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、廣望城攻略は断念。
  兵を退く。
   


146年5月
 代郡_韓輔公指揮のもと河内_李国襄非城攻略戦に参加。
  


146年5月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、襄非城攻略は断念。
  


146年9月
 呉郡_張慮下大夫指揮のもと東陽_杜国廣望城攻略戦に参加。
  


146年9月
 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、廣望城攻略は断念。
  兵を退く。
   


147年3月
 東陽_杜国廣望城攻略戦に着手。
  


147年8月
 東陽_杜勝公率いる東陽_杜軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、
  野戦をあきらめ、国境である城キ城に立て籠もる。
   


147年8月
 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 城キ城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


147年8月
 城キ城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


148年8月
 国内の合浦_夷濬に今後とも協力関係を築いていくことを納得させる。
  


148年9月
 山キ西の攻防戦において、馮翊_陸軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   侵攻作戦は成功。
    馮翊_陸領山キを制圧。
     功績により中大夫に昇進。
      


148年11月
 第2次城キの戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


149年2月
 東陽_杜勝公率いる東陽_杜軍からの、予想外の兵力による侵攻に際し、
  野戦をあきらめ、国境である城キ城に立て籠もる。
   


149年2月
 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 城キ城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


149年2月
 城キ城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


149年3月
 城キの地を拠点とする方面軍は新たに扶風_王湛卿が司令官に。
  


149年7月
 第2次襄非の戦いにおいて、鴈門_叔孫軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    鴈門_叔孫領襄非を制圧。
     


149年9月
 安悳の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  右翼騎を担い、敵の退路を絶つ等、活躍し、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


149年12月
 第3次城キの戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


150年4月
 東陽_杜国に拠点城キを制圧されるが、からくも脱出に成功。
  再起にかける。
   


150年10月
 淮陽_充沖下大夫率いる東陽_杜軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である南皮城に立て籠もる。
   


151年2月
 駆けつけた援軍部隊が勝利し、東陽_杜軍は撤退。
  


151年2月
 靈門城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


151年2月
 南皮の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。
  右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    功績により上大夫に昇進。
     


151年4月
 合肥の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。
   最後尾で殿を努める。
    


152年3月
 高成の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


152年3月
 第2次南皮の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


152年7月
 第2次高成の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


152年9月
 息子の勃海_梅脩が元服し代郡_韓軍中大夫を拝命。
  


152年10月
 第2次合肥の戦いにおいて、東陽_杜軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、敵の挑発にのり一時混乱したが、立て直し、
   勝利。
    敵侵攻軍を撃退。
     功績により卿に昇進。
      


153年2月
 宣城_扶袤宰相率いる東陽_杜軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である南皮城に立て籠もる。
   


153年2月
 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


153年2月
 南皮城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


153年7月
 高成東の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


153年8月
 宣城_扶袤宰相率いる東陽_杜軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である南皮城に立て籠もる。
   


153年8月
 度重なる東陽_杜軍の猛攻から 南皮城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


153年8月
 南皮城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


154年1月
 合肥山の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく東陽_杜軍と対戦。
  参謀として全軍を指揮する、勝利。
   敵侵攻軍を撃退。
    


154年2月
 壽光東の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく長沙_紀軍と対戦。
  


154年4月
 東陽_杜国城キ城攻略戦に着手。
  


154年4月
 城内への強行突入に成功、城キ城を陥落させる。
  


154年10月
 安悳山の攻防戦において、東陽_杜軍と対戦。
  陣頭に立つ、勝利。
   侵攻作戦は成功。
    東陽_杜領安悳を制圧。
     


154年10月
 代郡_韓周上士指揮のもと東陽_杜国高柴城攻略戦に参加。
  


155年2月
 中地_張松上士率いる中山_學軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である達昌城に立て籠もる。
   


155年2月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 達昌城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


155年2月
 達昌城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


155年4月
 秦郡_張艾士率いる中山_學軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である達昌城に立て籠もる。
   


155年4月
 度重なる中山_學軍の猛攻から 達昌城を守り抜き、
  ついに撤退に追い込む。
   


155年4月
 達昌城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。


155年7月
 東陽_杜国に降伏を促せ、自国に併合させる。
  


155年8月
 離狐平原の戦いにおいて、蜀郡_餘丘軍と対戦。
  陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
   


155年10月
 臨平の戦いにおいて、代郡_丁軍と対戦。
  陣頭に立つ、一時は敵の退路を絶つなど奮戦するが、敗戦。
   


155年10月
 達昌川の攻防戦において、中山_學軍と対戦。
  陣頭に立つ奮戦するが、敗戦。
   


155年10月
 楚郡_黄先下大夫率いる中山_學軍からの、
  予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である達昌城に立て籠もる。
   


155年10月
 達昌城は包囲戦の末、陥落。
  


155年10月
 中山_學国に拠点達昌を制圧され、自らの命を絶った。
  享年 37歳。
   


好意を持つ武将

無し



好意を持たれている武将


無し



敵視している武将


無し



敵視されている武将


東陽_杜勝 現在 49歳 東陽_杜国 公
  侵攻軍敗戦による敵意 君主から敵参謀