145年1月 当時 56歳、東海_召毅に中大夫として仕える。 主君の友人であったと言われる。
145年4月 皐虞の戦いにおいて、江夏_頓軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する、勝利。 侵攻作戦は成功。 江夏_頓領皐虞を制圧。
145年8月 沛郡_李驥宰相率いる桂林_覽軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である廣利城に立て籠もる。
145年11月 敵侵攻によって孤立した廣利の地において、 暫定自治を始めた安定_劉湛卿に従うことになる。
145年12月 廣利の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく桂林_覽軍と対戦。 参謀として全軍を指揮する奮戦するが、敗戦。 捕虜となり桂林_覽軍士として登用される。
146年1月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
146年2月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく乘氏の地への赴任が決まる。
146年3月 その人脈を持って、長沙_紀休邑宰の叛乱計画を知り、 城門を強行突破し帰路につく。
146年3月 国内の東郡_匡強と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
146年4月 桂林_覽訓公の指示によって、地元の支持を得るべく成陽の地への赴任が決まる。
146年4月 君主桂林_覽訓の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
146年4月 君主桂林_覽訓死亡。 特に協力者もいなかったため、悩んだ末、隴西_樊憲に従うことを決める。
146年5月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく參封の地への赴任が決まる。
146年7月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
146年11月 大陽の戦いにおいて、東郡_郭軍と対戦。 前衛を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 侵攻作戦は成功。
147年2月 東郡_郭国觀治城攻略戦に着手。
147年3月 觀治城を包囲戦の末、陥落させる。
147年8月 梁郡_李盛中大夫指揮のもと東郡_郭国言符城攻略戦に参加。
147年8月 言符城を包囲戦の末、陥落させる。
147年11月 隴西_樊憲公の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
147年12月 隴西_樊憲公の指示によって、地元の支持を得るべく長社の地への赴任が決まる。
147年12月 その分析力を生かし、一揆計画首謀者を暴き、間一髪のところで、 長社の地の叛乱を防ぎ事無きを得る。
148年1月 新たな人事編成により、文官の任を解かれ首都に帰還、 前線の武官としての活躍を期待される。
148年4月 第2次歴陽の戦いにおいて、安豐_宋軍と対戦。 後衛を担い、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。 安豐_宋領侵攻作戦は失敗に終わり、撤退を余儀なくさせられる。 捕虜となり安豐_宋軍士として登用される。
148年6月 武キ_田恕中大夫指揮の隴西_樊軍に聊城城を包囲される。
148年6月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 聊城城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年11月 武キ_田恕中大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
148年11月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
148年11月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年5月 敦煌_令狐滂上士率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
149年5月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年5月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年11月 魏郡_羽式上大夫率いる隴西_樊軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である歴陽城に立て籠もる。
149年11月 度重なる隴西_樊軍の猛攻から 歴陽城を守り抜き、 ついに撤退に追い込む。
149年11月 歴陽城において、そのまま国境の守備にあたるよう命じられる。
149年12月 歴陽城において病に伏せ逝去。 享年 61歳。
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