145年1月 当時 35歳、桂林_覽訓に上士として仕える。 卿の人事であったと言われる。
145年2月 沛郡_李驥宰相の推薦により、文官の任に就くことが決まる。
145年3月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく樂信の地への赴任が決まる。
145年8月 才より努力を持って、住民支持向上の成果をかろうじて上げ、 樂信の地をあとにする。
145年10月 沛郡_李驥宰相の指示によって、地元の支持を得るべく方與の地への赴任が決まる。
146年4月 君主桂林_覽訓の訃報を知らされ、急遽任地を後にし、 首邑に戻る。
146年4月 君主死亡。 特に従う人物も無く、放浪を始める。
149年12月 代郡_韓休の支配する博郷の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから沛郡_濮陽軍の人物関係をそれとなく理解する。
150年1月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、隴西_樊軍に仕官する。 彼が 41歳の時であった。
150年3月 国内の廣陵_宣通と今後とも協力関係を築いていこうと誓う。
152年4月 西河_ケ湛下大夫指揮の長沙_紀軍に昆郷城を包囲される。
152年4月 長沙_紀軍の猛攻を防ぎきれず、昆郷城は落城する。
152年4月 君主死亡。 仕える国を無くし放浪する。
155年10月 廣漢_包政の支配する成徳の地を訪れる。 たまたま意気投合した人物との話から代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
155年11月 敦煌_田榮の支配する蒲吾の地を訪れる。 この地の知者との話などから義陽_苑軍の人物関係をそれとなく理解する。
155年12月 廣漢_包政の支配する均夏の地を訪れる。 子供たちの童謡などから瑯邪_義軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年1月 中山_學舎の支配する祝其の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年2月 廣漢_韓宇の支配する舂陵の地を訪れる。 知り合った一兵卒との会話から遼東_楊軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年3月 中山_學潜の支配する營道の地を訪れる。 酒場でのやりとりなどから代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年4月 楚郡_黄訥の支配する嘉平の地を訪れる。 泊まった宿の主人の話などから沛郡_濮陽軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年5月 代郡_韓休の支配する襄安の地を訪れる。 住民との会話などから代郡_丁軍の人物関係をそれとなく理解する。
156年6月 在野にて、諸国を彷徨っていた後、代郡_韓軍に仕官する。 彼が 47歳の時であった。
156年7月 配属先が決まり、武官として準備するよう通達される。
156年7月 成固の地を拠点とする、東陽_杜勝上大夫揮下の北東部方面軍に配属。
156年9月 濮陽_邯鄲国黽平城攻略戦に着手。
156年9月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、黽平城攻略は断念。 兵を退く。
157年1月 青蛉東の戦いにおいて、廣陵_荀軍と対戦。 陣頭に立つ、敵本隊への突撃等、奮戦するが、敗戦。
157年5月 趙郡_宰父国高陽城攻略戦に着手。
157年5月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、高陽城攻略は断念。 兵を退く。
157年12月 濮陽_邯鄲国黽平城攻略戦に着手。
157年12月 度重なる強行突破の失敗で、多大な犠牲者を出し、 黽平城攻略は断念。 兵を退く。
158年3月 句容の戦いにおいて、彭城_蔽軍と対戦。 右翼を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。 功績により下大夫に昇進。
158年8月 廣陵_荀甫公率いる廣陵_荀軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄非城に立て籠もる。
158年9月 敵侵攻によって孤立した襄非の地において、 暫定自治を始めた東陽_杜勝卿に従うことになる。
158年12月 第3次襄非の戦いにおいて、城包囲に突破口を開くべく廣陵_荀軍と対戦。 右翼騎を担い、敵本隊への突撃等、活躍し勝利。 敵侵攻軍を撃退。
159年1月 合流先を失い、以後、東陽_杜勝公に従う。
159年2月 瑯邪_陳納下大夫率いる鬱林_雍門軍からの、 予想外の兵力による侵攻に際し、野戦をあきらめ、国境である襄安城に立て籠もる。
159年2月 鬱林_雍門軍の猛攻を防ぎきれず、襄安城は落城する。
159年2月 鬱林_雍門国に拠点襄安を制圧され降伏。 捕虜となり処刑。 享年 49歳。
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